第3章 刻まれている、「侯王たる倭王」の正体
(1) 畿内ヤマトの倭王でないなら、どの地域の倭王か
高野の宮に安置されている
七支刀を手にした武人像 由緒ある神社だが、小さなお堂という感じ
百済が同盟し、七支刀を贈った倭王とは畿内ヤマト王権ではないとすれば、どこの地域の倭王であろうか。まず、朝鮮半島に最も近い北部九州の倭王が考えられる。上の写真はその事を物語っているかもしれない、九州の神社に保存されている七支刀を持った武人像です。
福岡県南部のみやま市瀬高町の高野の宮には、上の写真の七支刀を持った古代の武人像が安置されており、古田武彦氏の九州王朝説や邪馬台国東遷説もあり、北部九州は有力候補と言える。上の写真はネットから入手したものですが、武人像などについて書かれたものは焼失して残っていないという。何故、九州に七支刀を手にした人形があるのか全くわかっていなく、この武人像が制作された年代も不詳である。
私は古田氏の九州王朝説には賛同できないが、古田氏が主張する7世紀まで存在していた日本を代表する王朝という、そのような王朝があったとしても、七支刀が何故石上神宮に保存されていたのか、この説明は、九州王朝説では不可能ではなかろうか。七支刀の事は、九州王朝説でどのように説明されているのか私は承知していないが、九州王朝が百済と同盟をして、七支刀を贈られたと仮定して、その九州王朝は7世紀まで存在していて、その後大和の王権と交代すると考えていると思われるが、7世紀まで九州王朝が保存していた七支刀が、どのようにして、大和の石上神宮に移動したのだろうか。その説明は困難だと思う。
そもそも、九州王朝説とは無理が多過ぎる説で、九州にヤマト王権と対抗できるような地域王権があったとしても、それは6世紀の磐井の乱(572年)頃までであろう。北部九州と深い関わりが想像されている、韓国の西南部の栄山江流域には前方後円墳が造られており、現在まで13基が確認されている。築造されたのは、5世紀後半から6世紀前半と考えられており、いくつかの説があるが、これは北部九州と有明海地方の豪族の墓という見解も有り、6世紀までは、北部九州には百済の王権とも協力し、大和の王権と対抗できるほどの王権があったと考えることは可能である。
また572年にヤマト王権が、加耶に圧力を強める新羅に対抗して朝鮮半島へ出兵しようとした時に、ヤマト王権と戦争をした磐井は新羅から賄賂をもらったと日本書紀は書いており、つまり九州の磐井勢力は独自に新羅との外交ルートを持っていたと考えられており、九州には独自な王権と言える勢力があったと思われる。
このような考えに対して、熊本県北部の菊池川流域の江田船山古墳出土の太刀銘では、「ワカタケルに典奉人として奉じした」と書かれており、5世紀後葉の雄略天皇の時代から九州はヤマト王権の支配下にあったという説もある。しかし、磐井の乱から想定できることは、北部九州にはヤマト王権と戦争するほどの地域王権があったということであり、北部九州の倭人の地域王権を牽制するために、ヤマト王権は菊池川流域の勢力を取り込んだと考えたほうが合理的だと私は考える。百済の王権が369年に北部九州の地域王権と同盟することは考えられるが、七支刀が何故大和の石上神宮に保存されていたのかを説明する事は、北部九州の王権の畿内への移動を考えない限り困難だが、九州の地域王権は6世紀の磐井の乱で終焉しており、6世紀以降にそのような王権の移動があったとは考えられない。
これらの説に対して、「侯王たる倭王」は九州にいたとする説として、邪馬台国東遷説は、九州の倭王に下賜された七支刀が、何故大和の石上神宮に保存されていたのかを容易に説明できる。
冒頭の七支刀を手にした武人像が発見されたみやま市瀬高町とは、かつては有明海に面していた地域で、かつての筑後山門郡であり、私もそうだが多くの邪馬台国九州論者が邪馬台国のあった地域と考えている。そうすると、邪馬台国東遷説との関係で考えてみたほうが合理的だと思う。しかし、邪馬台国東遷説には定説というものがなく、各人各様に説いているのが現状と思われ、東遷の時期もはっきりしない。少なくとも七支刀が贈られた神功皇后52年(372年)以降に、畿内へ東遷あるいは東征したという説を採らなければならない。
しかし、邪馬台国の記録は西晋の泰始2年(266年)の台与の派遣の記録で途絶えており、それから100年以上も九州にとどまり続けていて、倭王と称されるほどの権勢を保っていたとは思えない。九州にとどまり続けたとしても、没落して他の勢力と入れ替わっていると考えるのが自然である。そうではなく、邪馬台国がずっと続いていたとしても、372年にその国の王が「倭王」と称して百済から七支刀を贈られたという事はありうるだろうか。そもそも、邪馬台国は親魏倭王として、中国皇帝の権威を持って朝鮮半島の鉄資源を安定的に入手できたことが、政権の基盤の大きな一つであったと考えている。その基盤は4世紀になってからの晋王朝の没落と共に揺らぎ始め、313年の楽浪軍の崩壊とともに崩壊したと思われるので、弱小国にしか過ぎないであろう。もし国が残っていたとしても、神功皇后52年(372年)以降に大和地方へ東遷あるいは東征出来るほどの勢力だったとは思われない。
このように考えていくと、「七支刀」下賜説の「侯王たる倭王」は九州の倭王ではないと言う事になる。それでは、考古資料から当時の巨大な勢力と考えられる、出雲か吉備の地域王権が百済と同盟したのだろうか。これも、軍事同盟するには、百済からは地理的に離れすぎており、私には考えられない。
残りで考えられるのは、江上波夫氏の騎馬民族王朝説での「韓倭連合王国」たる加耶(任那)の王が、倭王を名乗っていたという私の持論、と言う事になってくる。加耶(任那)の王が、倭王を名乗るという事に違和感を感じる人がいると思うが、「三国志」の魏志韓伝では、三韓の一つである馬韓の月支国に都を置いた辰王の例がある。辰王は馬韓人ではなく、馬韓の南にある弁辰の地に影響力があったので、弁辰王の意味で唇王を名乗っていたと考えられるのである。
江上氏は著書「騎馬民族」(中公新書)の改版を1991年に発行しており、その時に本文中にある「倭韓連合王国」という表記を、「あとがき」では「韓倭連合王国」に改めており、ここから推測できることは、晩年は本文中にある筑紫に都を遷した「倭韓連合王国」の存在を否定して、金官加耶に都がある「韓倭連合王国」のまま、北九州に遷都せずに直接河内に移動したという説も、江上氏は併せて考えていたと思われる。
私は、金官加耶に都がある「韓倭連合王国」の王は「倭王」を名乗っており、広開土王碑に書かれている5世紀の高句麗戦での敗北後、高句麗に雪辱を図り、自らの国力を充実させるために、畿内の河内へ移動したと考えている。詳しくは自著「騎馬民族征服王朝は在った」(イマジン出版2014年)に書いてあるが、そこから一部を引用する。
『江上説によると369年の(百済との)同盟当時は、未だ北九州に侵入して間もない新興国である「韓倭連合国」の「倭王」で、この王の支配する地域は広く見積もっても、旧弁韓の12カ国と、旧邪馬台国連合の29カ国の合計41カ国(日向にあったと思われる投馬国は除く)で、百済は広く見積もって旧馬韓の地・凡そ50余国(魏志韓伝による)で、支配する地域は百済の方が多かったかもしれない。しかも、伝統ある「倭王」を名乗っていても新興国の王にすぎず、都は旧弁韓の地にあったとすれば、旧馬韓の地を概ね統一した百済からすると「加耶における倭王」にしか過ぎず、候王と呼んでも不思議はない。
しかし、同盟から22年後の391年になると、「倭が百済を『連れ込んで』新羅を破り、臣民とする」(広開土王碑文)程に倭王の力が増大してきた。おそらく、北部九州一帯をその支配下に置くほどになり、倭と百済の同盟は対等な関係から、後の「倭の五王」が百済を自らの勢力圏と主張するような関係へと変化していったが、同盟当時は新興国の「加耶における倭王」にしか過ぎなかったので、「侯王」と刻まれているのだと考える。
369年当時に百済が倭と同盟をするのは、倭が強大だったからというよりも、「倭王」は百済の東南に隣接する金官加耶(加羅)に都を持っているという、地の利が百済にとり魅力だったからだと考える。そのように解釈すると銘文に刻まれている「候王」が理解できる。そして「倭王」が「候王」とされている事から推測できることは、「韓倭連合国」はまだ新興国であり、夫余族つまり金官加耶国王の筑紫侵攻は、4世紀前半のかなり遅い頃だったと推測されることだ。この筑紫征圧を期に、金官加耶国王は倭王に名を改めたと考えている。』
ここでは筑紫征圧と書いてあるが、詳しくは筑紫の一部に影響力を持っていたに過ぎないと、今は考えている。また金官加耶の王が倭王を名乗るのは、北部九州に影響力があることだけではなく、朝鮮半島南岸の倭人の王でもあったからだと考えている。この事については、このホームページの「邪馬台国と大和王権成立の謎」の第4章で述べているのでそれも以下引用する。
『もう少し考えてみると、金官加耶では日常的に軍の中に倭人が組織されていたのではなかろうか。なぜそのように考えるかというと、朝鮮半島の南端部の沿岸地方である多島海地域には倭人が住んでいたという記録からである。金官加耶(現在の金海市)はその沿岸部にあり、倭人居住区と接していた可能性がある。
半島の南端には倭人が住んでいたとしている史料は、「三国志・魏志」の韓伝と倭人伝がある。
まず韓伝から見ていく。韓伝の冒頭に次の文書が書かれている。
「韓は帯方(郡)の南にあり、東西は海を持って限りとなし、南は倭と接す」と書かれている。
明らかに韓の南は海ではなく倭となっており、今日的地理感をもって、海をはさんで倭と接するという解釈はできない。また、次の文書もある。
「その瀆蘆国(とくろこく)は倭と境を接す」とある。
瀆蘆国(とくろこく)とは、弁辰瀆蘆国のことであり、倭と境を接していたと書かれている。金官加耶も「三国志」では弁辰狗邪(くや)国と書かれており、金官加耶も倭と境を接していた可能性がある。
また、倭人伝では次の記述がある。
「(帯方)郡依り倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、(諸)韓国を歴(へ)てたちまち南し、たちまち東し、其の北岸狗邪韓国(くやかんこく)に至る。」
倭の北岸が狗邪韓国すなわち金官加耶と書かれている。
倭の北岸が狗邪韓国と書かれていることに不審を抱く人がいると思われるが、不審ではない。現代の金海地域は洛東江西の広い平野になっているが、加耶時代以前は広い湾を形成していたと考えられていて、古代の大阪平野が河内潟という広い入海だったのと同様と考えて良い。ここには、朴天秀氏が「加耶と倭」(講談社選書 2007年 刊)で「古金海湾」と名づけている広い海があり、「其の北岸」とはこの海の北側が狗邪韓国という意味であり、「古金海湾」の南は倭であると考えれば、倭の北岸すなわち「古金海湾」の北岸が狗邪韓国ということで、「魏志倭人伝」を合理的に解釈できる。
この文章から推測できるのは、狗邪(くや)国も弁辰瀆蘆(とくろ)国と同様であり、「古金海湾」をはさんで倭と境を接していたと推測できるので、金官加耶の時代でも近隣には倭人が住んでいたと考えられる。
金官加耶は、3世紀後半頃に騎馬民族が弁辰狗邪国を征服してできた王権であり、高句麗や百済同様に扶余族が支配者層をなしたと思われる。権力の源は強力な軍事力であるが、支配者層をなす扶余族と思われる北方民族だけでは兵力不足であり、支配した弁辰狗邪の民だけではなく倭人も歩兵として軍に編入したとしても不思議ではない。4世紀後半から朝鮮半島は高句麗の南下により動乱の時代に入っており、金官加耶は倭人も軍に編入して軍事力を増強し、百済とは同盟しつつ、お互いに南下してくる高句麗に対抗していったと思われる。
金官加耶が積極的に百済と同盟したと考えるよりは、高句麗と隣接している百済が金官加耶と同盟したと考えるほうが自然であろう。七支刀で「侯王」とされている「倭」王とは金官加耶の王だったと考えると、「侯王」の謎が解けて、この同盟が実在していたことになるが、詳しくは次節で述べる。
しかしこのような努力にもかかわらず、400年には高句麗軍により「任那加羅」まで攻め込まれてしまう大敗北を被る事になった。
攻め込まれた「任那加羅」とは、金官加耶国のことだとされており、騎馬民族征服王朝説の江上波夫氏は、晩年には「倭韓」連合王国を「韓倭」連合王国に改めており、この国は「韓倭連合王国」の都だったと考えていたと思われる。
結論として、広開土王碑の「倭」とは、任那加羅つまり金官加耶に都を置いていた江上氏が説く「韓倭連合王国」の「倭」であり、韓倭連合王国の軍隊は支配者層を成す騎馬民族の騎馬隊と、主力となる歩兵は朝鮮半島南部の倭人と韓人により編成されていた。400年の戦いでは金官加耶は、対馬や北部九州の倭にも救援軍を要請し、海の向こうの倭人も金官加耶の軍隊にいて新羅と対峙していたと考える。』
以上、引用が長くなったがこれが私の持論である、4世紀には金官加耶に倭王がいたと言う説である。七支刀が下賜されたのは、この金官加耶の倭王であり、この倭王が河内へ移動したのは5世紀前葉のことで、「日本書紀」に書かれている応神天皇と同一人物である仁徳天皇が河内王権を築いたと考えている。その時に七支刀も日本列島へ移動してきたものと推測している。
応神・仁徳同一人物説はこのHPの「邪馬台国と大和王権成立の謎」第3章と第5章に書いてあるので、第5章の一部を引用する。
『同一人物説は、両者には共通する説話があること等がその理由となっている。直木幸次郎氏の「ヤマト王権と河内王権」(吉川弘文館)収録の「応神天皇は実在したか」に詳しいので、概要を紹介する。
まず一点目は、池の築造があげられる。両天皇では池の名前が違うが、河内地方開拓の創建者の説話とおもわれ、両人物ともに創建者となってしまうので、一人の創建者の説話と理解した方が合理的だからだ。これは、応神天皇は九州から畿内へ入ったなどの新王朝の創健者の伝承を持つが、多くの池堤を構築して大阪平野を開拓したのは仁徳天皇の説話で、ここでも創建者が二人になってしまうので、同一人物説の根拠となっている。
二点目は、古事記「仁徳記」の黒日売(くろひめ)と「日本書紀」「応神紀」の兄姫(えひめ)の物語の類似であり、同一人物の話が応神の話になったり、仁徳の話になったりしていると考えられる。
三点目は、枯野という船の話である。古事記「仁徳記」では、この船の壊れたもので塩を焼き、残った木で琴を作った。この船のことは「日本書紀」では「応神紀」に記載されており、やはり塩を焼き、琴を作った。大筋同じ説話が応神の話になったり仁徳の話になったりするのは、もとは両天皇が一体であったことを思わせる。
その他、「古事記」にある髪長比売(かみながひめ)で、「日本書紀」では髪長姫となっている人物の物語で、どちらも応神天皇の処に記載されている説話がある。要するに応神天皇が姫を召しよせたところ、仁徳天皇は髪長姫の「容姿の端正」に感じ入り、人を介して自分に賜るよう頼み込んだので、応神天皇は太子(仁徳天皇)に賜ったという話である。これは一人の女性を父と子が争うという物語の内容である。この父と子、または兄と弟が一人の女性を争うというタイプの話は「記・紀」の中に数例見られるが、髪長姫の説話以外は、親子・兄弟のような近親者でも命を失うか、失脚している。応神・仁徳父子が唯一の例外であり、この説話は疑わしいと思われる。
元々は、応神天皇である仁徳天皇が髪長姫を召したという説話が、両天皇が分離したことにより、親子の間で髪長姫を譲ったという話に変化したものと思われ、両天皇が一体であったことを窺わせる説話である。
他にも仁徳紀40年条に書かれてある播磨佐伯直阿俄能胡(アガノコ)が、「播磨国風土記」では応神天皇の話で阿我乃古(アガノコ)として登場している例がある。地方豪族出身と思われる人物が、このような古い時代に、二代の天皇に従えた例は少なく、このような伝承が生じるのは、応神・仁徳両天皇の区別が定かでない時期があったからだと思われている。
(中略)
このように応神天皇と仁徳天皇は、元は一体だったと思わせることが多く、同一人物説は通説とは言えないが、有力な学説とされている。同一人物だとすると、次に述べる、河内遷都は高句麗戦の敗北後の5世紀初~前葉と考える事が無理なくできる。』
このように任那加羅(金官加耶)の「倭王」(仁徳天皇)が5世紀初~前葉に河内へ遷都したと考えてみると、七支刀の「倭王」が任那加羅の王のことだと解釈できる。その点については、次節で詳しく検討していく。
そうではなく、あくまでも畿内のヤマト王権の倭王だったとすると、369年に倭と百済の同盟が成立するのに、不思議な事に考古資料からは4世紀・5世紀を通じて日本列島と百済の交流を反映する痕跡は認められないという(朴 天秀「加耶と倭」講談社選書メチエ2007年)。すなわち、この時期の日本列島における百済の考古資料のみならず、百済地域における倭の考古資料も見当たらないという現象がおきているのである。百済王と倭王の盟約は4世紀の事だが、その倭王とは日本列島にいなかった倭王であるから、当然日本列島と百済の交流を反映する考古資料の痕跡は認められないのであろう。
私の持論を採用して、七支刀は百済王と倭王の盟約を記念して、百済が「加耶における倭王」に下賜したとすると、4世紀・5世紀を通じて、日本列島と百済交流の考古資料の痕跡が認められないことが説明できる。また、この時期の畿内の倭は、朝鮮半島との交流は加耶が主だったという考古資料と整合性がとれる。
(2) 任那加羅の「倭王」が河内へ東遷した
前節で述べたように任那加羅(金官加耶)には、倭王がいてその王たちは5世紀の初めには、日本列島へ移動したと思われる。
このことについて、同時代史料である広開土王碑碑文と七支刀銘文と、朝鮮側の史料である「三国史記」と「日本書紀」で共通して書かれている史料を、検討する。
「日本書紀」の紀年は、通説に基づいて干支を2運して西暦とした。
*広開土王碑の「倭」とは、「任那加羅の倭」である
広開土王碑の「倭」に関する記事を、年表にしてみると以下のようになる。
三九六年、倭は三九一年以来渡海して百済・新羅を「臣民」としたが、王はこの年百済を破り、高句麗の「奴客」とする。
三九九年、百済が再び倭と「和通」する。
四〇〇年、歩騎五万を遣し、新羅を救い、「倭賊」を撃退する。さらに[任那加羅]の城を攻略し、「安羅人戊兵」とも戦う。
四〇四年、倭が帯方方面に侵入したので、「倭寇」を潰敗し斬殺する。
文献では「三国史記」も「日本書紀」も共通して、新羅の質(むかはり)とその救出説話を載せており、史実と思われる。
「三国史記」の新羅の倭への「質」問題を年表にすると、以下のようになる。
四〇二年、美海王子(「三国史記」では未斯欣)の倭への派遣、そのまま美海(未斯欣)は倭に留まる。
四〇五年、倭兵が明活城(慶州市普門里)を攻めたが、新羅の反撃に遭う
四一七年、実聖王が死去して、奈勿(なもつ)王の長子である訥祇麻(とつぎま)が王になる
四二五年、訥祇麻(とつぎま)王が高句麗と倭の質となっている弟の救出を群臣に相談する。
年は不詳、朴堤上が倭から美海(未斯欣)を救出。「日本書紀」によると、場所は対馬
広開土王碑の「倭」は、最近の日韓双方の研究では「加耶における倭兵」とされるようになってきた。私は加耶における「倭兵」の存在を拡大して、「加耶の倭」という存在を仮定している。
この考えはこのHPの「邪馬台国と大和王権成立の謎」の第4章に書いてあるので、そこから以下引用して、再度述べる。
一方韓国では、もっと明快に碑文に言う「倭」をヤマト王権の「倭」ではないと主張する説がある。金官加耶(金海市)の大成洞古墳群を発掘調査してきた申敬澈(シンギョンチョル)氏であり、氏の説が、日本における近年の説と並べて書いてあるので、以下「日本と朝鮮半島2000年 上」(NHK出版 2010年 刊)から、最近の日本の説と同時に引用する。
『大阪大学大学院の福永伸哉教授は、大阪南部にあるこの時期の古墳から大量の鉄製品が出土したことに注目している。当時の日本列島には、鉄を精錬する技術がなかったため、大陸から手に入れなければならなかった。福永教授は、倭が鉄を得るために金官加耶へ積極的に軍事支援を行ない、畿内に本拠を置く倭人たちが、高句麗と戦ったと考えている。
一方、釜山大学の申敬澈(シンギョンチョル)教授は、金官加耶が兵力の不足を補うために倭に支援を求め、そのときに加耶軍に編入された倭人の存在が碑文に記されたと考えている。「伝統的に親密な関係だった加耶からの要請だったので、倭人たちが比較的大規模でやってきたことは間違いないと思います。しかし、加耶のような重武装した軍隊のような組織ではなかった。倭人の武器は加耶の鎧と兜による武装だったので、現代の感覚の救援軍とは決していえません。加耶軍をベースに倭の傭兵がたくさん加わっていたので、「倭」と表現したのでしょう。今日でいう同盟関係による対等な関係であったとは思えません」』
日韓双方で新たな議論が起きているのであるが、以前の議論と異なっているところがある。以前の日本の見解では、高句麗と戦ったのは「大和朝廷」としていたが、高句麗と戦ったのは金官加耶であり、倭はそこへ積極的に軍事支援をしたという説となっている。
日韓双方ともに、高句麗と戦ったのは金官加耶としているが、申教授は「加耶軍をベースに倭の傭兵」としているのに対しが、日本の福永氏は「金官加耶へ積極的に軍事支援を行ない、畿内に本拠を置く倭人たちが、高句麗と戦った」としている。 碑文では、逃げる倭軍を追って、高句麗軍は任那加羅(金官加耶)を攻めるのであるから、金官加耶が高句麗と戦ったと考えるのは合理的だと思う。しかし、金官加耶と倭の関係を巡って、微妙なところで日韓では意見が分かれている。
福永教授の考え方によると、倭と加耶は同盟関係に有り加耶の要請により、武装した軍人(兵)を倭が送ったと考えている。従って倭兵の軍事指揮権は当然、倭の将軍にある。
申(シン)教授は、武装した軍人(兵)が加耶へ来たのではなく、傭兵がやってきて、その者たちに加耶のような重武装させて加耶軍に編入したという。従って倭兵の軍事指揮権は当然、加耶の将軍にある。
日韓の考え方の相違は、以上のように整理できると思う。
福永教授の考え方では、純粋に軍事的な問題として考えてみると従来の説と変わってはおらず、難しいと思う。何故ならば、軍隊として編成された部隊を送るのであるから、武器や食料の補給、つまり兵站の問題が有り、更には遠方への派兵であり、畿内での軍隊の編成の仕方にも難しい問題を感じる。
4世紀には畿内と金官加耶が密接に交流していることは、考古資料から明らかであるが、だからといって同盟関係にあるとするには余りにも遠方の国すぎる。しかも、金官加耶はかつての狗邪国とは異なり、騎馬民族の国となっており、強力な騎馬軍団と重武装の歩兵の軍隊を持っており、騎馬も知らない遠方の「倭」の救援軍を頼るよりは、金官加耶の立場からすると、倭に支援を要請するにしても、組織だった救援軍の派遣要請というよりは、加耶軍に編入される兵の派遣要請だったであろう。
このように、申(シン)教授の倭の傭兵説の方に説得力を感じる。
説得力があるのは、「三国史記」には、数多くの倭の新羅侵攻の記事があり、朝鮮半島南部沿岸部の倭や、北九州の倭と思われるものたちが、新羅を攻めている記事の存在である。当然その殆どは、国と言えるような組織だった勢力ではなかったとしても、軽武装のこの者達を傭兵とすることは可能であり、かなりの人数の傭兵を集めることができたと思われる。この倭人の傭兵を加耶軍に編成することは、魏志倭人伝に書かれてある通り、古くから交流のあった狗邪国(金官加耶)と倭人の関係があり、かなり容易に加耶軍に編成できたと思われるのである。
金官加耶の支配層が、支配層からなる騎馬軍団と、しばしば新羅を攻めていた倭人による歩兵軍団、と言う組み合わせを考えるのは自然な事である。遠方にある畿内の「倭」の救援軍を当てにして同盟を結ぶことよりは、この方が現実的な判断だと言える。
更には、「金官加耶が兵力の不足を補うために倭に支援を求め、そのときに加耶軍に編入された倭人の存在」という文脈から想像するに、申教授は加耶軍に編入された倭人を傭兵のみとは考えてはいない様だが、支援を要請したのは畿内のヤマト王権というよりは、近隣の北部九州の諸首長とした方が合理的である。
もう少し考えてみると、金官加耶では日常的に軍の中に倭人が組織されていたのではなかろうか。なぜそのように考えるかというと、朝鮮半島の南端部の沿岸地方である多島海地域には倭人が住んでいたという記録からである。金官加耶(現在の金海市)はその沿岸部にあり、倭人居住区と接していた可能性がある。
半島の南端には倭人が住んでいたとしている史料は、「三国志・魏志」の韓伝と倭人伝がある。
まず「魏志」韓伝から見ていく。韓伝の冒頭に次の文書が書かれている。
『韓は帯方(郡)の南にあり、東西は海を持って限りとなし、南は倭と接す』
と書かれている。
明らかに韓の南は海ではなく倭となっており、今日的地理感をもって、海をはさんで倭と接するという解釈はできない。また、次の文書もある。
『その瀆蘆国(とくろこく)は倭と境を接す』とある。
瀆蘆国(とくろこく)とは、弁辰瀆蘆国のことであり、金官加耶も「三国志」では弁辰狗邪(くや)国と書かれており、金官加耶も倭と接していた可能性がある。
また、倭人伝では次の記述がある。
『(帯方)郡依り倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、(諸)韓国を歴(へ)てたちまち南し、たちまち東し、其の北岸狗邪韓国(くやかんこく)に至る。』
倭の北岸が狗邪韓国すなわち金官加耶と書かれている。
倭の北岸が狗邪韓国と書かれていることに不審を抱く人がいると思われるが、不審ではない。現代の金海地域は洛東江西の広い平野になっているが、加耶時代以前は広い湾を形成していたと考えられていて、古代の大阪平野が河内潟という広い入海だったのと同様と考えて良い。ここには、朴天秀氏が「加耶と倭」(講談社選書 2007年 刊)で「古金海湾」と名づけている広い海があり、「其の北岸」とはこの海の北側が狗邪韓国という意味であり、「古金海湾」の南は倭であると考えれば、倭の北岸すなわち「古金海湾」の北岸が狗邪韓国ということで、「魏志」倭人伝を合理的に解釈できる。
この文章から推測できるのは、狗邪(くや)国も弁辰瀆蘆(とくろ)国と同様であり、「古金海湾」をはさんで倭と境を接していたと推測できるので、金官加耶の時代でも近隣には倭人が住んでいたと考えられる。
金官加耶国は、弁辰狗邪国の地に樹立された王権であり、日本列島との窓口と言える国だが史料はほとんど残されていない。「三国史記」や「日本書紀」の断片的な記事以外に、「駕洛国記」が「三国遺事」に引用されて残っており、その建国神話は日本神話の天孫降臨神話とそっくりである。広開土王碑には「任那加羅」と表記されている国であり、その遺跡の大成洞古墳群からは、中国東北地方の鮮卑族の国「前燕」の影響が濃いといわれており、古いものは3世紀代かとも思われる馬具が多く出土している(「騎馬文化と古代のイノベーション」 kadokawa
2016年刊 P118 李尚律)。この遺跡と「魏志」韓伝の辰王の記載から、高句麗や百済同様に扶余族が支配者層をなしていたと私は考えている。権力の源は強力な軍事力と思われるが、支配者層をなす北方騎馬民族だけでは兵力不足であり、支配した弁辰狗邪の民だけではなく倭人も歩兵として軍に編入したとしても不思議ではない。4世紀後半から朝鮮半島は高句麗の南下により動乱の時代に入っており、金官加耶は倭人も軍に編入して軍事力を増強し、百済とは同盟しつつ、お互いに南下してくる高句麗に対抗していったと思われる。
金官加耶が積極的に百済と同盟したと考えるよりは、高句麗と隣接している百済が金官加耶と同盟したと考えるほうが自然であろう。
以上、私の考えである「加耶の倭」について説明したが、次にこの考えで、「日本書紀」も「三国史記」も共通して書いてある新羅の「質」の問題を考えてみる。
朴堤上が倭から美海(未斯欣)を救出するのは四二五年以降のことであるから、朴堤上が美海(未斯欣)王子を救出したのは、年代からして畿内ヤマト王権の倭であることは確実であるが、だからと言って、四〇二年に美海(未斯欣)が派遣された「倭」とは「畿内ヤマトの倭」とは言い切れない。
何故ならば、四〇五年の新羅と倭の戦いが問題であり、「三国史記」では、倭兵が明活城(慶州市普門里)を攻めたが、騎兵により独山の南で大破する、と書かれており、「日本書紀」では応神紀16年(405)に書かれていて、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)が帰ってこないので、平群臣の祖木菟(つくの)宿禰と的臣(いくはのおみ)の祖戸田宿禰を遣わして新羅を討ったという記事になっている。「三国史記」では新羅が勝利し、「日本書紀」では倭が勝利したことになっているが、問題はその事ではなく、「三国史記」に書かれている「倭兵」が問題なのだ。「三国史記」では、度々倭や倭兵の新羅侵攻記事があるが、それは朝鮮半島南岸の倭か北部九州の倭というのが通説であるが、四〇五年の戦いは「日本書紀」にも書かれてあり、この「倭兵」は畿内ヤマト王権の倭とする説が主流のようである。しかし、そうであろうか。
その正体を明かすためには、「日本書紀」に書かれている登場人物に注目しなければならない。
登場人物の葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)も、平群臣の祖木菟(つくの)宿禰も、さらに的臣(いくはのおみ)の祖戸田宿禰も、皆ともに六代241年以上にわたり歴代天皇に仕えたと言われる典型的な伝説上の人物である建内宿禰(たけのうちのすくね)の子になっており、このような人物は存在しなかったとすべきである。例えば、平群臣の祖木菟(つくの)宿禰は、仁徳天皇と同日に生まれたという平群臣の始祖伝承が仁徳元年(433)紀に記載されているのに、木菟(つくの)宿禰は産まれる前に新羅で戦争をしたという矛盾が有る。
この例のように、四〇五年の倭と新羅の戦いの伝承は「百済記」に残っていたとしても、それは「ヤマト王権の倭」から派遣された将軍たちの戦いではなかったとすべきであり、「加耶の倭」と新羅との戦いと理解すべきだろう。「三国史記」には数多くの「倭」の新羅侵攻の記載があり、この「倭」とは朝鮮半島南部の倭や、北部九州の倭とするのが通説であり、「日本書紀」応神16年条(四〇五年)の「倭」の新羅侵攻も同様と思われる。
したがって「日本書紀」応神16年条をもって、畿内ヤマト王権の朝鮮半島進出の証拠とすることは出来ず、「加耶の倭」とされる存在は、四〇五年までは確実にあったと言える。その後に「加耶の倭」は日本列島へ移動したと考えており、それは後ほど説明する。
同様の「加耶の倭」については、百済からの「倭」への「質」(むはかり)の問題にも言える。
「日本書紀」応神八年紀(397)に、百済の阿花王の王子直支(とき)を倭国の「質」にしたという「百済記」の記事を載せている。「三国史記」阿花王六年(397)でも太子の腆支(てんし)を倭国の質とした記事があり、「日本書紀」と「三国史記」の記載が一致しており真実だと思われる。しかも、この記事は広開土王碑の以下の銘文と対応していおり、歴史的事実として良い。
三九六年、倭は三九一年以来渡海して百済・新羅を「臣民」としたが、王はこの年百済を破り、高句麗の「奴客」とする。
三九九年、百済が再び倭と「和通」する。
三九六年に高句麗に蹂躙された百済が、三九七年に隣国の「加耶の倭」に救援を頼むために、「質」を出す事は十分に考えられるので、その結果、三九九年の百済が再び倭と「和通」する、と言う広開土王碑の碑文になったと思われる。
この「質」はどうなったかというと、「日本書紀」では新羅と戦争をしたと記している応神一六年(405)の是歳(このとし)条に記されており、百済の阿花王が死亡したので、王子の直支(とき)に国へ帰り位(くらい)に嗣(つ)け、と応神が言ったと記されている。「三国史記」百済本紀腆支王即位前紀でも、太子の腆支(てんし)帰国の記事が書かれていて、「日本書紀」と「三国史記」は一致している。
新羅の「質」美海(未斯欣)と同様で、百済の「質」も四〇五年までは「金官加耶の倭」に留まっていたと考えてよい。そしてその後、「金官加耶の倭」すなわち、江上波夫氏のいう「韓倭連合王国」の日本列島への移動が始まった、と私は考えている。
今まで便宜上「加耶の倭」とも「金官加耶の倭」とも書いてきたが、地理上厳密に言うと「加耶地域の金官加耶の倭」とするのが、当時の正しい地理認識と言える。しかし、「金官加耶」が歴史上最初に表記されるのは広開土王碑の「任那加羅」であり、これが後に「金官加耶」と記されるようになった。従って、五世紀初めまでは広開土王碑に書かれている「任那加羅」を用いて、「任那加羅の倭」とするのが正しいと考えている。
何故ならば、金官加耶も任那加羅も「魏志」韓伝と倭人伝に出てくる弁辰狗邪(くや)国の地域で、現在の金海(キメ)市とされており、この国は後に大加耶が加耶の中心となると南加羅とか南加耶とも呼ばれたりして、時代により呼び名が異なる地域なので、広開土王碑に書かれている表記がこの時代の表記として最もふさわしいと考え「任那加羅」とする。
加耶という地域は「魏志」韓伝の弁韓(弁辰)一二国とほぼ重なる地域と想定されており、概ね洛東江から西の地域で、金官国などを含むかなり広い地域であったが、百済や新羅のように国としては統一されなかった地域である。同地域は伽耶とも駕洛とも加羅とも書かれているが、同語の意表記である。ただし、日本書紀は同地域を任那としているが、朝鮮側史料ではほとんど任那の用例はなく、私は任那とは加耶とは異なり、金官国という加耶諸国のうちの一国にしか過ぎなかったが、前期加耶連盟の中心となっていた国だと考えている。任那を拡大解釈するにしても、南江(ナンガン)以南の安羅(あら)国や卓淳(とくじゅん)国などを含む前期加耶連盟とすべきで、連盟の盟主の任那(金官)国の名で任那連盟としても良いと考えるが、「日本書紀」は任那地域を広く捉えすぎている。
なお前期加耶連盟と後期加耶連盟という考えは、韓国の金泰植(キムテシク)教授の考えで、大加耶を盟主とする後期加耶連盟は概ね支持されているが、金官(私が言う任那)を盟主とする前期加耶連盟については、加耶全域の連盟とするには異論がある。(田中俊明著「古代の日本と加耶」山川出版社)
* 七支刀の「倭王」とは任那加羅(金官加耶)の倭王である
私は七支刀の銘文の表に刻まれている「侯王」と、裏面の倭王は同一人物に違いないと考えている。しかし日本の歴史学界では「侯王」については黙ったまま、倭王は畿内ヤマトの倭王とするのが通説となっている。畿内のヤマト王権が九州まで制圧して朝鮮半島に影響力を持っていたとしたら、旧馬韓の地の北半分を領するに過ぎなかった百済から、格下の「侯王」とされるはずがない。したがって畿内ヤマト王権の倭王説には、七支刀に刻まれている「侯王」とは誰かという謎が残されたままである。
さらに、七支刀は「倭」と百済の同盟記念であるから、同盟があった369年以降は百済と畿内ヤマトの交流があったはずだが、朴天秀(パク チョンス)氏の「加耶と倭」(講談社選書メチエ 2007年刊)によると、考古資料から伺えるのは4世紀全体を通じて、畿内と朝鮮半島の交流は加耶との交流のみで、百済との交流を示す考古資料はほとんど発見されていないという。日本側の考古資料も同様であり、つまり、考古資料からは369年の百済とヤマト王権の同盟は確認できないのである。
また「日本書紀」欽明紀の史料からは、百済の近肖古王と近貴首王という百済が七支刀を倭に贈った時代は、実は百済と加耶諸国との国交が開けて、親密な関係であった事がうかがえる。つまり、百済が七支刀を贈った「倭王」とは加耶諸国にいた可能性がある。
そのことを示す史料として、百済の聖明王が呼びかける所謂「任那復興会議」での、「日本書紀」が記す聖明王の発言がある。それによると、金官国や卓淳(とくじゅん)国が新羅により滅ぼされた後の、欽明紀二年(541年)秋七月の事として、百済は安羅(あら)の日本府が新羅と通牒しているとの情報を得て、そこで任那諸国の王や有力貴族を集めて百済聖明王の次の伝言を言ったという。以下の引用は全現代語訳「日本書紀」(講談社学術文庫)
『王は任那に対して、「昔、わが先祖速古王・貴首王と、当時の任那諸国の国王らとが、はじめて和親を結んで兄弟の仲となった。それゆえ自分はお前を子どもとも弟とも考え、お前も我を父とも兄とも思い、共に天皇に仕えて強敵を防ぎ、国家を守って今日に至った。わが先祖と当時の国王とが和親を願った言葉を思いうかべると、それは輝く日のようである。」』
ここで、速古王とあるのは近肖古王であり、貴首王とあるのは近貴首王のことであり、七支刀を倭王に贈った親子であり、この時初めて任那諸国と和親を結んで兄弟の仲になったと言っているのである。これは、まるで「七支刀」の物語の様である。
これと同様の記事は、同年四月条にもあるので、引用する。
『聖明王は、「昔、わが先祖速古王・貴首王の世に、安羅・加羅・卓淳の旱岐(かんき)らが、初めて使いを遣わして、相通じ親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願ったのである。ところが新羅に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。」』
ここで出てくる旱岐(かんき)とは王のことであり、任那諸国との国交がこの時開かれたことを言っている。「七支刀」記事と同様の百済と加耶の盟約を記しており、やはり、百済が七支刀を贈った「倭王」とは加耶諸国にいた倭王とすべきで、百済の近肖古王と近貴首王が初めて国交を開いたのはヤマトの倭ではなく「加耶の倭」とすべきである。
では加耶諸国で倭王を名乗った国とはいずれの国か。やはり前期加耶連盟の盟主とされる金官加耶、広開土王碑に書かれている任那加羅、つまり今の金海(キメ)市にいた王であろう。
朝鮮半島の王が倭王と名乗るのに、今日の国境線からは違和感を覚えるだろうが、当時の朝鮮半島の南端は韓ではなく倭だと「魏志」には書いてあり、しかも任那の王が都を置いた所は古金海湾沿いであり、古金海湾を挟んだ向こうには倭人が住んでいたと思われる所である。朝鮮半島の倭人はかなり広く活動していたと思われ、朝鮮半島南岸の東は釜山から西は栄山江に至るまでの多島海は、海の民で航海の達人だった倭人の活躍していた地域であり、その地域の王であるから倭王であっても不思議ではない。
また、魏志韓伝には馬韓の月支国に都をおいていた辰王のことが書かれていて、弁辰諸国も服属させていた。馬韓に都しているが、その南の弁辰の王を名乗ったとも解釈できる例で、加耶に都する王が倭王を名乗ったとしても不思議ではない。
ところで、騎馬民族は農耕地帯を征服した時の統治政策は、被征服民族を用いて統治する政策ではなく、その近隣の民族を重用して統治する政策を採ることが多い。例えば、モンゴルが中国を征服して「元」を建てたときは、漢人よりは西域にいた色目人の方を重用した政策をとった。
同様に、狗邪(くや)韓国を征服した騎馬民族は、韓人よりは倭人を重んじる政策を採り、さらに騎馬民族は歩兵不足を補うために、北部九州沿岸部の首長層からの倭兵の出兵に期待して、彼ら首長層への影響力を強めて、倭王を名乗ったのではなかろうか。このような事情で、狗邪(くや)韓国を征服して自らの支配する地域を「任那」=王の国と呼んでいたが、任那王ではなく倭王を名乗ったものと思われる。
このように解釈することにより、「七支刀」に書かれてある「倭王」と「侯王」の謎が解ける。つまり倭王とは「加耶における倭王」であり、百済からするとまだ小国の王にしか過ぎないので、この王を候王という格下の王としたのであろう。
この任那加羅にいた倭王が、高句麗戦での400年と404年の敗北後、高句麗に雪辱をするためには百済との同盟だけでは力不足と考え、当時交流があった畿内のヤマトの隣の河内へ移動して、国力の充実を図ったものと考えられる。
のちの時代に百済王族や高句麗王達が渡来してくるのは、国が敗れた結果の亡命であったが、任那加羅の倭王たちは、敗戦の結果の亡命とは言えず、高句麗に都を襲われたことへの復讐と言う、かなり積極的な理由で日本列島へ移動したと考えられる。
このことを考古遺跡の資料から見ていくことにする。
任那加羅(金官加耶)があった大成洞古墳群(金海市)は、旧狗邪(くや)韓国のあった土地で、3世紀の後半頃以降に、騎馬用甲冑・馬具・蒙古鉢形冑・珪甲・轡(くつわ)などの北方騎馬民族文化の副葬品が出土している(「騎馬文化と古代のイノベーション」 kadokawa
2016年刊 P118 李尚律)。この大成洞古墳群の副葬品から、騎馬民族が支配者層をなしたと思われる。指導者層が騎馬民族である事は、王を旱岐(かんき)としており、モンゴルのジンギス・カンの例に見られるように、騎馬民族の指導者層はいずれも「カン」という音を共通にしていることからも伺える。
ところが、この任那加羅(金官加耶)では、支配者層の墓制である大型木槨墓を最後に、五世紀前葉以降は王の墳墓が築造されていない。つまり王がいなくなった。大成洞古墳群を長年にわたり発掘調査してきた韓国の申(シン)教授は、「五世紀前葉に金海大成洞の集団が、突然行方知らずになった」と述べており、「日本列島への集団移住も否定できない」としている。理由は、集団失踪した5世紀前葉と全く同じ時期に、日本列島の古墳は騎馬文化を伴った中期古墳時代に急激に変わり、同じ時期であり、中期古墳文化への急激な変化をもたらしたのは、大成洞古墳群の集団とすることも考えられるからだ。
2000年になり、大成洞古墳群の発掘調査報告書である「金海大成洞古墳群Ⅰ」(慶星大学校博物館)が発行された。そこでは発掘を推進した申敬澈(シン ギョンチョル)氏はかねてよりの持論をまとめて、注目すべき提言をしている。それによると、大成洞古墳群で王墓が築造されなくなるのは、5世紀初~前葉であり、王墓が築かれなくなるのは、事実上の金官国の滅亡であり、それを盟主とする前期加耶連盟も瓦解した。そして金官国の住民のみならず、それと関わりを持った慶尚南道西部地域や全羅南道の栄山江流域の民を巻き込み、日本列島への移動が起こったという提言であり、古墳が築かれなくなり、移動が起こった理由として高句麗の加耶侵攻などをあげているという。以上は、田中俊明著「古代日本と加耶」(山川出版社 2009年刊)に書かかれてあった。
事実上の任那加羅(金官)国の滅亡とは、任那加羅(金官)国王が任那国からいなくなったから起きたことであり、前期加耶連盟の崩壊の理由としても説得力がある。しかし、金官加耶国の滅亡は文献的には532年の事とされており、532年まであった金官国とは何であり、それと日本列島へ移動した任那(金官)国王たちとの関係が気になる。
この問題では、朴天秀(パク チョンス)氏は「加耶と倭」(講談社選書メチエ 2007年刊)で、金官国は古今海湾沿いから背後の土地に移動して存続したという見解を示している。少し長くなるが、金官国(私の言うところの任那国)の成立のところから、以下引用する。
『金官加耶の成立は、金海市内の中心部に位置した大成洞古墳群をその始まりとする。三世紀中葉を起点に丘陵頂上部に王墓域が形成される、殉葬が行われるといった良洞里古墳で見られない特徴が認められる。土器様式と威信財である筒形銅器の分布から見ると、洛東江以東の東莢(トンネ)地域に位置した福泉洞古墳群の造営集団と連盟関係を結び、四世紀初めを前後した時期に最も発展したと考えられる。その圏域は、金官加耶様式土器の分布から、東側は東莢(トンネ)福泉洞古墳群が位置する釜山地域、北側は昌原市茶戸里古墳群が位置する進永地域、西側は三東洞(サムトンドン)古墳群が位置する昌原盆地を含めた地域と考えられる。
ところで、「広開土王碑」の庚子年を前後に、これまで金官加耶と同盟関係にあった東莢(トンネ)地域の福泉洞古墳群に、新羅文物が急激に出現することからわかるように、洛東江東岸の東莢(トンネ)地域が新羅の影響力の下に入っていく。また、この時期を前後して大成洞古墳群では王墓である大型木槨墓の造営が停止する。その後、古金海湾一帯には五世紀以後の加耶地域で普遍的に現れる大型高塚が造営されなくなるが、これは金官加耶の衰退を象徴的に示している。しかし昌原市茶戸里古墳群では、六世紀初めに造営された大型横穴式石室墳が確認されており、その中心邑落は古金海湾から背後の茶戸里古墳群が位置する進永一帯に移動し、五三二年、新羅に投降するまで存続していたと推定される。』
朴(パク)氏は、古金海湾一帯に大型高塚が造営されなくなる現象を金官加耶の衰退としているが、この現象は申(シン)氏が説くように、王たちの日本列島への移動とすべきと考える。この移動の後に、朴(パク)氏が説くように古金海湾の背後にある北西側の邑落が金官国とされたのであろう。
したがって532年に滅亡した金官国とは、この古金海湾の背後にあった国のことと思われ、広開土王碑に書かれている任那加羅とは地理的に少々のズレがあると考えられる。このような事情で、大成洞古墳群の集団の日本列島への移動はあったものの、金官国という名前は残った。しかし、大加耶(高霊)が加耶の盟主となった頃は、金官国は「三国史記」では南加耶、「日本書紀」では南加羅と記されるようになったのであろう。
五世紀初め頃に畿内へ大量の渡来人が来たことは通説となっており、この時期の渡来人の故郷は加耶とするのも通説である。日本ではこの渡来人のことをかつては帰化人と呼んでおり、日本列島のヤマト王権などが朝鮮半島から連れてきたという解釈をとっている。これは余りにも自国本位の見方であり、朝鮮半島からの視点が欠落していると思う。
朝鮮半島からの視点で見ると、渡来人は戦乱を避けて日本列島へ移住したと解釈できる。だとすると、加耶から多くの渡来人を引き連れていた指導者はいたはずであり、渡来の規模からしてその人物とは、王侯クラスの権力者だったと言えるのではなかろうか。だとすると、申(シン)教授の説である任那加羅にいた王が多くの民を引き連れて、畿内に来入したという考えは十分に成り立つ。
そしてその王たちは河内にたどり着いて、河内王権を樹立したのではなかろうか。
このような私の考えに対して、通説は4世紀末にはヤマト王権は朝鮮半島南部に進出して、何らかの権益を得ていたというものである。しかし、この説は「日本書紀」が引用する「百済記」の加耶7国平定記事以外には根拠のないものと言える。それで、広開土王碑に記されている「倭」をヤマト王権の「倭」とする説を採用するが、この説は最近は揺らいでおり、加耶へ応援に行った倭兵とするのが最近の説であり、ヤマト王権が朝鮮半島南部に進出していたという説をとっていないのが今日の説である。
しかし、まだまだ4世紀末にはヤマト王権は朝鮮半島南部に進出していたという説は、通説とされているのが現状の様である。しかし、この説は「日本書紀」が引用する「百済記」以外には根拠がなく、「百済記」は亡命百済人の書いた書物と考えられており、「貴国(かしこきくに)」という「媚びへつらった称」と言われてもやむを得ない表現などがあり、同じく「日本書紀」が六世紀代で引用する「百済本記」と比較すると、信頼性が乏しい。
このような信頼性の乏しい史料に頼るのではなく、あくまでも同時代史料である「七支刀銘文」と「広開土王碑文」を読み解いていくと、私の達した結論になると思う。
以上で終えるが、私の謎解きの結論は七支刀が下賜されたのは「加耶における倭王」であり、その倭王が五世紀初めに日本列島に移動したという「渡来人による河内王権説」となった。この説は江上氏の騎馬民族征服王朝説と似ているが、いくつかの点で異なる。
まず第1点は、渡来してきた金官加耶国王は大成洞古墳等の発掘結果から、騎馬民族であることは明らかになっており、江上氏のようにこの騎馬民族はどこから南下してきたかを明らかにする必要がないので、不明のままである。おそらくは高句麗や百済同様に扶余族であり、「魏志韓伝」に書かれている辰王とは無関係ではないと思うが、今後の韓国側の研究成果を待ちたい。
第2点目は、応神天皇による4世紀末から5世紀初めの来入としていることを、仁徳天皇による5世紀初め頃の渡来とした。言うまでもなく韓国の大成洞古墳群の発掘調査結果から導かれる結論である。この時期に多くの渡来人が、朝鮮半島の加耶から日本列島の畿内に移住してきたことは今日では通説となっている。この通説の規模を更に大規模なものとして、河内一国を築き、生駒山脈や二上山を挟み大和の勢力と対峙したと考えている。
3点目は、江上氏は騎馬民族の来入を北九州と河内の二段階としているが、私は北九州へは影響力を持ち、諸首長へは派兵を要請することはあったが、九州への侵攻は無く、任那加羅から直接河内へ来たという一段階として捉えている。従って江上氏は初代天皇とされている崇神天皇を任那加羅の王としているが、私は崇神天皇が実在したとすると、第一次ヤマト王権の王と考えている。
4点目は、日本神話の取り扱い方の違いである。江上氏は神話を史実の反映としているが、私はそれには無理があると考えている。神話の一部に史実が隠されているとしても、あくまでも神話は神話として研究すべき課題だと思う。そういう意味で、私は溝口睦子氏の「王権神話の二元構造説」により、江上説を採り入れていったのであり、江上氏の説く神話論を支持しているわけではない。溝口氏の説は2000年に発表されており、その一部は「アマテラスの誕生」(岩波新書 2009年)で知ることが出来て、私はこの書物で勉強をした結果、江上説を採り入れることになった。「王権神話の二元構造説」を簡単に説明すると、天孫降臨などの王権神話は、倭が5世紀になり高句麗戦の大敗北の結果新しく採り入れた神話であり、旧来の弥生時代以来の国生み神話や大国主などの神話と二元構造になったという説であり、非常に説得力を感じた。
最後の5点目は騎馬民族王朝という言葉を避けて、渡来人による河内王権という名にしたことである。理由は渡来の時に引き連れてきた馬は船で連れてきたのだから、当然数は少ないことによる。騎馬民族である加耶(任那加羅)の王とその支配層の渡来であるが、馬の数が少ないため渡来した時の兵力は、鉄の兜と鎧で重装備した歩兵が主力とならざるを得なかったと思われる。それでも、鉄の鎧兜を装備していない倭人相手では強力な軍事力だったであろう。それでは渡来して来た馬の規模はどれくらいだろうか。「騎馬文化と古代のイノベーション」(2016年 KADOKAWA P16)に以下の記述があった。「馬の渡来は、数千頭単位でなくては、次世代に近親交配が起こり、立ちいかなくなる。つまり、大規模な移動があったことが、近年明らかになってきている。」 数百頭単位の渡来ではないということであり、これだけの数となると一斉に馬の渡来があったというよりは、数次にわたって馬の渡来があったと考えるべきだろう。これは人間にも言えることで、最初は兵士だけが渡来して根拠地を築いて、徐々に家族や工人を呼び寄せたのであろう。
騎馬軍団の整備は、河内に移住して馬の飼育を盛んにおこなった後の事で、馬の数さえ揃えば元来が乗馬が巧みな彼らが騎馬軍団を整備するのは容易いことだったが、渡来した当時は王族ら少数の指導者のみが乗馬して戦場に出る事が可能だったと言うべきだろう。馬は歩兵同様に貴重な戦力であり、繁殖させるために非常に貴重なものだったので、馬の数が揃うまでは戦場での乗馬は控えたと思われる。だとすると、騎馬民族王朝という、颯爽と騎馬軍団が畿内に来入したというイメージを抱いてしまう、騎馬民族王朝という言葉はふさわしくないと思った。
江上氏の説への反論としては、騎馬文化は来たが騎馬民族は来なかったというのが通説である。最近この通説の説明として、「騎馬文化と古代のイノベーション」(2016年 KADOKAWA)の基調講演である白石太一郎氏の「日本列島の騎馬文化どのようにして始まったのか」を読んだ。要するに高句麗と戦うために百済は倭と国交を樹立して(七支刀の銘文による)、倭国は百済の誘いを受けて、朝鮮半島へ出兵することになった。高句麗と戦うといっても簡単ではなく、倭人たちは全く馬を知らなかったので、まず馬の文化を学ばなければならなかった。それで百済は多くの渡来人を送って、倭人たちに馬の生産技術を教えたのだろう、という説である。
しかし同書の「古代東アジアと日本列島の馬具」(李 尚律)の報告では、百済・新羅・加耶の騎馬文化はそれぞれ特徴があり、加耶の騎馬文化が倭の初期の馬具へ最も大きな影響を与えたとしている。つまり、初期の騎馬文化は加耶の騎馬文化が導入されているのであり、白石氏の説は考古資料からは否定される。例え白石氏が説くように、百済からの影響があったとしても、百済が倭人に一から騎馬文化を教えるという迂遠な戦略を採用したのでは、喫緊の課題である高句麗との戦争の役には立たないのではないかという疑問があり、考えづらい説である。
やはり、騎馬文化を携えた加耶からの渡来人が大量に日本列島へ移住してきたのが、日本列島における騎馬文化の始まりと考えるべきと考えている。
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