文献史料から邪馬台国を探る

   


   はじめに

 以前は「魏志倭人伝から邪馬台国を探る」というタイトルだった物を、加筆して修正しました。
私のHPは、様々な不具合が起きて、HP作成ソフトを新しいものにして、新たに作り直していました。
「続・糖尿病のハイキング」がそれです。
新しいとは言っても、以前の私のホームページに載せていページを、別のサイトから引用したものがありました。
それで、別のサイトからの引用したページは、不具合のまま残ってしまってました。
見苦しいので、思い切って、「糖尿病のハイキング」等の、別サイトから引用のページを切断しました。
「魏志倭人伝から邪馬台国を探る」は、別サイトからの引用だったのですが、
無くしてしまうのが惜しまれて、新たに改題して作り直しました。
以前に比べて、第2章が新たに「隋書」倭国伝等の史料が加わり、大きく変わっています。

            2016年1月6日記


           目次

1章  邪馬台国までの距離の誇張
(1) 「親魏大月子国王」とバランスを取る必要があった
(2) 何割、距離は誇張されているのか
 
2章 邪馬台国はどこか
(1) 北九州でなければ、後の歴史と辻褄が合わない
(2) 邪馬台国は筑後山門郡にあった

3章 奴国・不称国・投馬国の位置
(1) 博多は奴国でなく、不弥国だった
(2) 謎の投馬国

4章 なぜ邪馬台国畿内大和説は間違っているか
(1) 吉備国・出雲国の記載がなく、狗奴国も説明できない
(2) 3世紀初頭に、近畿圏と北九州を統一する国があり得たのか  
(3) 邪馬台国と倭王権成立の時期
                                      
      1章 邪馬台国までの距離の誇張

(1) 「親魏大月子国王」とバランスを取る必要があった

  岡田英弘氏はその著書「倭国」(中公新書)のまえがきで、「考古学は、本来歴史の代用にはなり得ない性質のものである。
書 かれた記録のないところに歴史はありえない。」と書いている。同感である。邪馬台国の位置を推測するには、当時の東アジア情勢を考慮しながら、
「魏志」倭人伝を読み込んでいくのが王道だと考えている。
中国の正史である「三国志」(陳寿[233~297]著)は、「魏書」・「蜀書」・「呉書」からなり、いわゆる「魏志」倭人伝は「魏書」の中の「東夷伝倭人の条」のことで、
邪馬台国までの距離以外は、当時の中国の役人が直接「倭国」を見聞しており、正確な史料と思われる。
同時代に書かれたと言われるものに「魏略」(魚かん著)があり、両方の記述がほぼ同一なのは、原史料が共通だったからだと思う。
3世紀の日本の現実を直接見聞した使者の報告書に基づく貴重な記録であり、原史料は、帯方郡の役人が書いた報告書を元にして、
魏の都の役人が書き残したものと推測する。 しかも裴松之(372~451)の詳細な注もあり、「魏志」倭人伝は歴史資料としてはかなり正確だと思われる。
しかし、著者は同時代史を書くのだから、現政権への不利な史料は慎重な取り扱いが要求されて、史料の取捨選択等に政治的な配慮は有っただろう。
 
 [倭人伝」では、帯方郡から邪馬台国までの距離が明らかに誇張されている。
その理由は、西方の超大国「大月子国」(西北インドから中央アジアの「クシャーナ朝」)に授けられた「親魏」という特別な呼称が「倭国」にも授けられたからである。
この「大月子国」とのバランスという政治的な理由による誇張説は、手塚隆義氏の「晋魏倭王考」(1963年)が着目し、岡田英弘氏がその問題意識を継承した学説であり、長い邪馬台国論争の中では、最新の学説と言える。
 邪馬台国への距離については、従来から白鳥庫吉氏等の短里(約75m)説はあるが、政治的な理由により誇張されているという事は、後に発表された放射状で読む説だと、伊都国から先は誇張されていないので標準里(約435m)という事になり、従来からの短里説とは異なる。
 「魏志」倭人伝は当然中国の歴史書であり、「親魏倭王」という称号が、当時の超大国である西北インドの「クシャーナ朝」に与えられた「親魏大月氏国王」と同等の称号であり、しかもそれが同時代の出来事であることに着目しており、日本史を東北アジア史としてとらえると説得力がある。
詳しくは、岡田氏の著書「倭国」(中公新書;1977年初版発行))に書かれている。なお岡田氏は距離だけでなく、倭国の人口も誇張されているとしている。

 政治的な理由とは、西晋王朝の実質的な創始者といっても良い司馬懿(しば い)が、遼東の公孫氏を滅ぼしたから、東方「倭国」から魏への朝貢が可能になったという事実は、魏・呉・蜀の三国鼎立のこの時代では、魏の南方にある呉との戦いに上でも重要だった。
そして、「親魏倭王」という称号が、ガンダーラ美術を花咲かせた西方の大帝国・「大月子国」(西北インドから中央アジアの「クシャーナ朝」)に匹敵する偉大な称号であることへのバランスが要求されており、司馬懿の功績に対する政治的配慮が必要だった。
卑弥呼の朝貢は、西晋王朝の始祖であり、対立する「呉」が同盟を図っていた遼東の「公孫氏」を滅ぼした司馬懿の功績、として大書されるべきことがらであった。

 「親魏大月子国王」を授けられた大月氏国(クシャーナ朝)を漢に朝貢させたのは、司馬懿のライバルである曹真の功績であったのに対して、
「親魏倭王」を授けられた「倭国」を朝貢させたとのは、西晋王朝の実質的な創始者・司馬懿の功績である。
皇帝から「倭国」が、「親魏倭王」という偉大な称号が授けられた以上は、これを「親魏大月子国王」に劣らない偉大な功績としなければならない。
そのために、「倭国」を「大月氏国」なみの遠国にする政治的配慮が働いたと推測する。
おそらく、帯方郡から都への報告書では、政治的な配慮が無い記載であったが、都の役人が倭国を遠方にするための改ざんをしたものと思われる。
誰も知らない事に対しては、このような上司に対する政治的配慮で、改ざんを行う事は、今も昔も役人の行動によく有る事である。

 魏の明帝が、有名なガンダーラ美術のカニシカ王の孫にあたる、大月子国(クシャーナ朝)の波調王(ヴァースデーヴァ王)を「親魏大月子王」の称号を贈ったのは、太和3(229)年12月であった。
それに対して、司馬懿が公孫氏を滅ぼした翌年の景初3(239)年に,卑弥呼は朝貢して「新魏倭王」の称号を贈られており、その差は10年の開きしかない。
同時代のことであり、この偉大な称号の国が比較の対象になるのはやむを得ないが、ガンダーラ美術の超大国「大月子国」と、当時の倭とでは、酷な比較である。
しかも「大月氏国」(クシャーナ朝)は、「後漢書」によると、洛陽から大月氏国の都・藍氏(らんし)城までの距離は1万6370里とされる遠方である。
そこで、司馬懿の功績を、ライバルの曹真の功績に負けず劣らないものとしなければならない、という政治的配慮が、都・洛陽の役人に働いたと推測する。

 「魏」は対立する「呉」が海路を使って遼東の「公孫氏」と同盟しようとしていたことに脅威を感じていた。
その「公孫氏」を司馬懿が滅ぼした翌年に、「倭」が魏の都へ朝貢に来た。これに報い、対「呉」戦争に備えるためにも「親魏倭王」という偉大なの称号を授けた。
「親魏大月子国王」の大月氏国が都から1万6370里(「後漢書」西域伝による)と言う遠方にあることとのバランスから、
帯方郡から邪馬台国までを1万2000里として大月氏国並みの遠方にする必要が生じた。
 都の洛陽から楽浪郡までは5000里とされており、これは周知のことだったので、
誰も知らない、帯方郡から朝鮮半島南端の狗邪韓国までの距離を7000余里などとして、邪馬台国に至る距離を誇張した。
その結果、都から邪馬台国まで計1万7000里以上と、大月氏国に劣らない遠方の国だと誇張された。

 帯方郡は楽浪郡の南に有り、その帯方郡から狗邪韓国までが7000余里だと、
都の洛陽から楽浪郡までが5000里とされていたから、楽浪郡から朝鮮半島南端までの距離は、楽浪郡から洛陽よりもはるかに遠い距離になってしまっている。
朝鮮半島が巨大で、インド半島かアラビア半島のようになってしまい、今日ではとんでもないと思うが、誰も知らないことだから通用した。
都に居る人々にとっては楽浪郡までの知識はあったとしても、楽浪郡から先にある朝鮮半島南端は知識も記録もなかったので、これで通用した。
 
 陳寿が従えていた西晋時代にあった史料では、以上の理由で帯方郡から倭国へ至る距離は誇張されていたと思われる。
その史料をもとに魏志倭人伝も、魏略も書かれたと推測する。「魏略」には、帯方郡から伊都国までの道筋が書かれており、魏志倭人伝と同じである。
距離についても対馬と壱岐間の距離の記載がないことを除けば全く同じで、また「帯方郡より女王国に至るまで1万2千里」と邪馬台国までの距離も全く同じである。
二人の著者が用いた原史料では、そのように記載されていたと推測する。おそらく、「親魏倭王」が住む倭国に関する西晋王朝の公式見解とは、そのようなものであったのであろう。
(注;) 通説では「魏志」は「魏略」(全文は失われたが逸文が残っている)を種本にしているとされてきた。
これは内藤湖南(1866年~1934年)が「魏略」の記事が魏の明帝の時で止まることからこの説を説いた。
しかしその後の研究で魏の最後の皇帝晩年の記事があるところから、「魏略」も「魏志」も同時代の作と想定されるようになり、通説は揺らいでいる。

 魏志倭人伝の著者である陳寿はこの誇張に気付いていたかどうかはわからない。
岡田氏は陳寿は嘘だと気づいていたとしているが、もしそうだとしても、陳寿には本音を書くわけにはいかなかっただろう。
現帝室の名誉に関わる問題だったからであり、また陳寿の経歴 (蜀漢の旧臣である陳寿を抜擢した張華の存在など) からしても本音は書けないことだった。
 これは『三国志』に「西戎伝」(西域伝)が欠けている事からも伺える。
 蜀漢生まれで、蜀漢が滅ぶまでこの国に仕えていた彼にとって、「親魏大月子国」の入貢が魏と蜀との戦争にとって、魏勝利への戦略的に大きな重要性を持っていることを知っていた。
 蜀漢は魏との戦いで長安がある渭水盆地の制圧を目指して五丈原で戦っていたが、その勝利のためには渭水盆地の西にある西域諸国との同盟が必要だった。
蜀の諸葛孔明は、第一次北伐で涼州を支配するなどして、渭水盆地の西にある西域諸国との同盟を図っていた事を、陳寿は当然知っていた。
その戦略的重要性とは、西域諸国の西にある「大月子国」と魏が友好関係になることにより、西域諸国を牽制し、魏は渭水盆地の西に兵力を割かずに済み、五丈原に兵力を集中できることである。このことは対蜀漢戦争にとっては、戦略的には非常に重要なことである。
「西戎伝」を書けばそのことに、陳寿は触れざるを得ない。だから『魏略』には「西戎伝」があるにもかかわらず、『三国志』にはそれが欠けている。
 魏と蜀との戦争の勝因は、五丈原で諸葛孔明が率いる蜀軍と戦った司馬懿の功績とされているのに、「大月子国」との友好関係司を築いた、司馬懿のライバル曹真の功績を詳しく書く事になり、彼にはできないことだった。
元は蜀漢に仕えながら、国が滅び晋朝に出仕し、正史を書くにまで抜擢してくれた晋王朝の始祖・司馬懿の功績を重要視すれば、「西戎伝」を欠く『三国志』とならざるを得なかった。
 そして陳寿は、対「呉」戦争で呉が海路で、同盟を図った「公孫氏」を滅ぼした司馬懿の功績、を重要視する「東夷伝」を書いた。
こういう事情の中、「倭」は「大月子国」並みの遠方にある国であるという、当時の晋王朝の公式見解を、そのまま倭人伝に書いたと思われる。
 
(2) 何割、距離は誇張されているのか
 
  政治的配慮から距離が誇張されているのではなく、そもそも距離がでたらめで全くあてにできないという人もいる。
根拠は、末盧国(筑前国松浦郡で、豊臣秀吉が朝鮮侵攻の拠点とした天然の良港名護屋浦がある今の唐津市)と伊都国(筑前国怡土『イト』郡で今の糸島市)間の距離も、伊都国(糸島市)と奴国(博多)の距離もほぼ同じなのに、前者は500里で後者は100里となっていることを挙げる。
後で述べるが、私は邪馬台国までの国々の記述は、直線的に読むのではなく、放射状で読むべきだと思っている。
このように読むと、距離がでたらめと云うよりは、むしろ、郡から邪馬台国までの距離が意図的に誇張されている証拠といえる。

 理由は、伊都国から奴国や不弥国への距離は、邪馬台国までの距離とは関係がないので帯方郡の原史料のままで誇張されていないからであり、
一方、伊都国までの距離は邪馬台国への道筋になるので、一定の割合で誇張されていることに依る。
元々は、帯方郡は正確な距離を都に報告したが、都では「親魏倭王」を「親魏大月子国王」並みの遠方の所在にするため、伊都国までは一定の割合で距離を誇張したからである。
しかし、奴国と不弥国は「親魏倭王」が住む場所への道筋に関係ないので、原史料のまま残ったというのが私の解釈だ。
実際誇張された距離は5~6倍になると計算できるので、誇張された500里と、原史料のままの100里は同じ距離になる。
  このことは、よく議論になる「魏志倭人伝」の「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」という文書にも言える。
同じことは、「魏略」の「後漢書」の逸文の「海を渡る千里、また国あり、皆倭種なり……」という文書にも見えており、どちらも海を渡った千余里の所に倭種の国があると書いてある。

 「女王国の東には海があって、それを渡って千余里に、女王国以外にも国が有り、皆倭種である」という意味である。
 この文書は、私は邪馬台国・筑後山門説を採るので、瀬戸内海か日本海を渡った先の中国地方、あるいは畿内にも倭人の国がある、という意味で解釈出来る。。

 この「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり」という記事も、帯方郡の原史料は、邪馬台国までの道順と関係ないことなので、誇張の必要が無く、そのまま都に残っていたので、この場合の千余里は、当時(晋・魏時代)の一里である約435メートルを基準にすべきと考える。
 それでは、一里を約435メートルとして、海を渡って千余里で、当時の主要な倭人の国が存在するのか、JR時刻表の営業距離を使って、検証してみる。
起点を那ノ津のあった博多駅として、瀬戸内ルートを取ると、山陽新幹線の営業キロは、岡山まで445キロメートルである。
一里約435メートルとすると、千里で約435キロメートルとなり、弥生後期の中心地の一つ吉備地方の中枢部である、現岡山市周辺が、丁度約千里となる。
日本海ルートを取ると、博多から門司まで79,0kmで下関から松江まで325.4km、合計404.4kmで、やはり、約千里で出雲地方の中心の一つである、松江市周辺にたどり着く。
このように、女王国から瀬戸内ルートを通り約千里で、当時の大国である吉備にたどり着き、日本海ルートでも約千里で、当時の大国出雲にたどり着く。
帯方郡の役人は、女王国としか交渉していなかったが、帯方郡にいる中国商人たちは、吉備や出雲と交易をしており、女王国とこれらの国の、ほぼ正確な情報を知っていたので、「魏志倭人伝」には、「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」と記載できたのであろう。

 このように、「魏志倭人伝」の「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」という文書においても、距離がでたらめであるという説は成り立たない。

 ではこの誇張された距離は何割誇張されていて、1里は何メートルになるのか推測してみる。
朝鮮半島から対馬の距離も、対馬から壹岐島の距離も1000余里とされていることから、実際の距離から逆算すると、1里は約75メートルで、当時の1里は約435メートルだったので5~6倍にされている。
この距離(約75メートル)は晋・曹魏時代にあったと言われる「短里」と同じであり、誇張のために「短里」を用いたことが考えられる。
つまり魏志倭人伝に記載されている距離は、帯方郡から邪馬台国までの距離は晋・魏時代の「短里」が用いられており、それ以外は晋・魏時代に普通に使われていた「長里」が用いられていると解釈する。
「短里」とは、周の時代の1里と同じだと言われており、当時の復古主義の産物と思われている。

 一方、東西等の方角は概ね正しいものとすべきだ。
東西の相対座標軸である日の入りと日の出の方角は季節により異なるから、記述には日の出と日の入り程度の方角のブレはあっても不思議ではない。
 しかし、畿内(大和)説のように、方角を途中から南を東として、90度も違えて読むのは不合理である。
畿内(大和)説では伊都国から邪馬台国まで道順に国名が並んでいる読み方をするが、奴国と不弥国までの方角は原文通りで正しいと読み、それから先の方角を90度ずらして、南を東と読み込んでいる。
郡使が常駐し、一大率がいたという伊都国から先の方角の記載方法が異なっているというのなら、百歩譲って理解できる。
しかしそれだと、伊都国から東南と東と記載されている奴国と不弥国は、方角を90度づらすと、奴国は志賀島方面となり、不弥国は玄界灘に位置していまう。
畿内大和への道筋から外れてしまうどころか、不弥国は海の中になってしまい、直線的に読む論理が破綻する。
何故無理に、不弥国から先の2区間のみを方角を90度づらすのか合理的な説明はなく、方角は概ね正しいとして読むべきだ。
 
 政治的配慮から誇張された距離以外は、方角も概ね正確な歴史資料として読んだ上で、邪馬国の位置を推測していく。
                                         


  第2章 邪馬台国はどこか


 
上の地図は、ネットに載っていたものです。

(1) 北九州でなければ、後の歴史と辻褄が合わない


 歴史家の門脇禎二氏は、かつては京都学派の一人として邪馬台国大和説であったが、
大和説に疑問を持ちながら、「魏志」倭人伝という文献史料を精査していく中で、大和説を捨てて、北九州説になった。
その門脇氏の晩年の著書 「邪馬台国と地域王国」(吉川弘文館・2008年)の冒頭の文書を、以下に紹介する。

 「邪馬台国は三世紀の問題である。しかし、ただ三世紀だけで終わる問題ではない。
特に、邪馬台国の位置をどこに見るかによって、七世紀までの国家形成過程は大きく異なってくる。」

 私も同感である。歴史は連綿と続いているものであり、そこに革命的な飛躍もあれば、長い停滞もあるとしても、そこには連続性がある。
三世紀にあった邪馬台国が、大和にある場合と、北九州にある場合とで、次の四世紀の有り様は随分異なってくるのである。
「空白の四世紀」と言われて、数少ない文献史料である「広開土王碑文」と、「七支刀銘文」の解釈にも影響を与える事になる。
例えば、400年に広開土王と戦った「倭」の正体は、邪馬台国北九州説では、必ずしも、通説である大和の「倭」としなくても良く、
むしろ、大和の「倭」は広開土王とは戦っていなかったという解釈の方が妥当である。
 また北九州説では、七支刀銘文中の謎の「候王」とは、苦しい解釈をしなくて、「倭王」のことであっても良いことになる。
何故ならば、「候王」とは、北九州にいる「倭王」であれば、百済王から「候王」と呼ばれても不思議ではないからである。
このように、四世紀の歴史だけではなく、七世紀の飛鳥時代までの国家形成過程は大きく異なる事は、納得できる。

 このように、邪馬台国大和説と北九州説とでは、飛鳥時代(六世紀末~七世紀)までの国家形成過程は大きく異なってしまうのである。
その事は逆に考えると、「隋書」倭国伝という外国の文献で遡ることが可能な、飛鳥時代の倭王権の有り様からも、この所在地論争にアプローチが可能ではなかろうか。
 飛鳥時代には「隋書」倭国伝という、中国の役人が直接倭国を見聞した文献があり、この時代の国の有り様は、かなり明らかになっている。
この「隋書」倭国伝に書かれている、「倭国」のありようから、邪馬台国の所在地論争にアプローチしてみる。
問題点は、「隋書」倭国伝では、対馬と壱岐は倭国の範囲外の地域として書かれていることである。
問題の箇所を、講談社学術文庫の「隋書」倭国伝より引用する。

「都斯麻(つしま)国の、はるかに大海の中に在るを経。又東して一支(いき)国に至る。又 竹斯(つくし)国に至り、又東して秦王国に至る。
 (中略) 竹斯(つくし)国自(よ)り以東、皆倭に附庸たり。」

 「魏志」倭人伝には、対馬国と一大国の記載があり、一大国とは壱岐の事であり、其々大官は卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)というと記載されている。
卑狗とは彦であり、卑奴母離(ひなもり)とは夷守のことであると解釈されており、両島とも、倭人語を話していたことが分かり、当然、邪馬台国連合を構成する国である。
対馬も壱岐も「古事記」神話での国生み神話に登場する大八島(おおやしま)の一部であり、当然、倭国の一部である。
しかし、「日本書紀」の本文に書かれている大八洲(おおやしま)には、対馬と壱岐の二島は含まれていない。
しかも、「古事記」の国生み神話は、書物が書かれた律令時代の倭国の姿を書いていると言われており、
必ずしも邪馬台国の時代(三世紀)以降の倭国の範囲と一致するとは限らない。

 対馬と壱岐は邪馬台国連合を構成しているが、大和に都を置いていた古墳時代と飛鳥時代の倭国の版図に、対馬と壱岐が含まれていなかったと思われる史料が「隋書」倭国伝である。


 「隋書」倭国伝を読むと、倭国に至る道筋として、都斯麻(つしま)国を経て一支(いき)国に至り、また竹斯(つくし)国に至ると書かれているが、
『竹斯(つくし)国より以東、みな倭に附庸たり』と言う注目すべき文書である。
言うまでもなく、都斯麻(つしま)国とは対馬であり、一支(いき)国とは壱岐であり、竹斯(つくし)国とは筑紫のことであり、
倭国に至る道筋として、対馬・壱岐・築紫が書かれているが、倭国の版図は筑紫から始まると書いてあり、対馬と壱岐は倭国の版図外であるとしか解釈できない。
 「隋書」倭国伝は、遣隋使である小野妹子が608年に帰国する際に随行した、隋の外交官である裴世清(はいせいせい)が倭国を直接訪問して書かれており、
対馬と壱岐が倭国の附庸ではないという認識が、間違いであったとは考えられない。
推古天皇の時代は、都は大和の飛鳥地方にあり、大和を中心とする勢力は、この時代に至るまで対馬や壱岐に対しては、政治的影響力を行使できないでいたと解釈するしかない。

 律令が整備される以前の飛鳥時代の倭国には、壱岐と対馬が含まれていなかったと思われるだけではなく、「記・紀」でのイザナキ・イザナミの二神による国生み神話でも、壱岐と対馬が含まれていない神話の方が多数残されている。
「古事記」の国生み神話での大八島(おおやしま)とは、淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡・大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島の順で生んだので、
わが国を、大八島の国というと書いてある。
ところが、「日本書紀」の本文での二神による国生み神話では、大八州(おおやしま)の島々に壱岐と対馬が含まれてはいない。
大日本豊秋津(おおやまととよあきつ)洲・淡路洲・伊予の二名洲(四国)・筑紫洲(九州)・隠岐の三子洲・佐渡洲・越洲・吉備子洲(きびのこしま)の順で生んで、
これによって始めて大八洲(おおやしま)国の名ができたと書いてある。

 余談であるが、吉備子洲(きびのこしま)とは、岡山県の児島半島のことで当時は島であったが、越州は島とは思えないのが不自然であることに関しては、私は越州とは能登半島と考えている。
 能登半島入口の邑知潟は古代では日本海の入江と言ってもよい広さで、越中の国司だった大伴家持は当時は越中国だった能登視察の折に、邑知潟のことを「子呼(しお)路からただ越え来れば羽咋の海」と詠んでおり、古代では能登半島へ行くには、羽咋の海(邑知潟)を越えていったものと思われる。また、邑知潟の入口北岸に越路野という地名が有り、越路とは常識的に考えれば越前から越後へ至る路のはずなのに、何故能登半島の入口が越路という地名なのか。能登半島が越州だったから、その入口が越路野と呼ばれたのではなかろうか。国生み神話の越州は能登半島だと考えている
 「日本書紀」本文では、対馬と壱岐は大八洲国の範囲外とされており、対馬と壱岐などの小島は、イザナキ・イザナミが生んだのではなく、潮の泡が固まって出来たものだと書いてある。
但し、「一書(ある書)」の第7では、古事記と同じ神話で、対馬と壱岐を含んだ大八洲国になっているが、第10まである「一書(ある書)」の中で、これだけが対馬と壱岐を含んだ大八洲国になっていて、「古事記」とは随分異なっている。。
 「古事記」での大八島(おおやしま)は、飛鳥時代末の律令国家が整備された後であり、大宝律令の施行は701年であり、8世紀以降の倭国の姿であろうと言われており、律令が整備される以前の飛鳥時代の倭国の姿とは言えない。
「日本書紀」の本文での大八洲(おおやしま)国はいつごろの倭国の姿かは不詳であるが、「隋書」倭国伝と同様で、壱岐と対馬は大八洲(おおやしま)国の範囲外の地域とされている。

 以上の「隋書」倭国伝が示す倭国の姿と、「日本書紀」の本文での大八洲(おおやしま)国の姿から、飛鳥時代以前の倭国には、対馬と壱岐は含まれていなかったものと推測できる。
すると、「魏志」倭人伝に書かれている邪馬台国に都を置く倭国には対馬と壱岐は含まれていることを、どのように理解すべきか。
邪馬台国が大和に有りその政治勢力が成長してヤマト王権になったとしたら、当然ヤマト王権の統治範囲内に対馬と壱岐は含まれていなければならないとすべきである。
しかし、「隋書」倭国伝ではそうはなっていない。
私は、邪馬台国は北九州にあり、当時の邪馬台国連合は北九州と壱岐島、及び、対馬から構成されていたが、
邪馬台国は当時(三世紀)の大和や吉備そして出雲同様の地域王国に過ぎなかったからだと考えている。
ヤマト王権が成立して、倭国が日本列島を統属した頃には、この二つの島は北九州の王国である邪馬台国の統屬地域ではあったのが、
遠く離れた大和にある王権には統属しなかったので、飛鳥時代の倭国には、対馬と壱岐は含まれていなかったと考えている。

 つまり、邪馬台国は日本列島を代表する王権とは言えず、飛鳥時代の倭王権とは直接的な関係のない、地域王国だったと考えるべきである。
その事は、1章で述べた、「魏志」倭人伝に書かれている、「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」という文書からも言える
畿内(大和)にあった邪馬台国が成長してヤマト王権になったとしたら、当然対馬と壱岐はその王権の統屬範囲内であるはずなのに、「隋書」倭国伝ではそうはなっていない。
したがって、「隋書」倭国伝の記事を邪馬台国畿内大和説では説明ができず、北九州説が有力だと考える。


(2) 邪馬台国は筑後山門郡にあった

 帯方郡より伊都国に至るまでは、「方角・距離・国名」の順で記載されている。
しかし、伊都国より先は記述の仕方が替わり全て、「方角・国名・距離」の順で記載されており、白鳥氏の高弟である榎一雄(えのきかずお)氏は、
この表記方法の違いに着目して、1948年に、郡から伊都国までは直線的に道筋を示して、伊都国から先は放射状に周囲の国の方向と距離を示したと発表した。
さらに、伊都国から先の倭人伝の書き方が変化するという事だけではなく、
伊都国までの距離を示す「里」と、伊都国から先の「里」とでは、同じ単位にも関わらず、長さが異なっているという最新の指摘もある。
伊都国までは邪馬台国を意図的に遠方の国とするために、当時の「里」ではなく、周の時代の「短里」(約75m)が用いられており、
伊都国から先は当時普通に用いられていた「里」(約435m)が用いられているという、近年になっての重要な指摘である。
 ここまでは先に書いたが、この説が最も合理的な倭人伝の読み方なので、この説で邪馬台国の位置を推測していく。

 それまでの直線的な読み方は、「伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」と連続して読んでいた。
 一方放射状とは「伊都国→奴国」・「伊都国→不弥国」・「伊都国→投馬国」・「伊都国→邪馬台国」とそれぞれが、独立した説明文だと解釈した。
下に二つの読み方の違いを図で示しておく。



 キーポイントは伊都国である。
この国は女王国から中国の刺史のような役割の一大率が任命されており、郡の役人が常に行き来する特別な国である。
以下に原文とその訳文を載せる。

 「自女王國以北、特置一大率、検察諸國畏揮之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。」

「女王国より北には、特別に一つの大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、いつも津(しん・水上交通上の関)で、文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」


 ここで書かれている中国の刺史とは、州の長官という意味で、州の牧とも言われる役人の事である。

 このことの重要性を良く理解してから原文の漢文を読むと、榎説のように、伊都国から先は放射線状に記載されているとしか理解ができないと思う。
 もっと単純に、戦前までの直線的な読み方が不可能なのは、距離の記載である。郡から伊都国までは、7000里+1000里+1000里+1000里+500里=10500里となる。
女王国までは1万2000里だから、残りは1500里しかない。それなのに100里+100里+水行20日+水行10日+陸行1月もかかるはずがない。 
 榎氏等は邪馬台国は伊都国から水行なら10日で、「または」、陸行なら1月という解釈もした。
戦前までは「または」ではなく「そして」と読んでいた。これで、邪馬台国は北九州内に収まる解釈ができることになった。
 伊都国から1500里(約110キロメートル)の距離に邪馬台国があったという事は、邪馬台国は北九州にあったということになる。
北九州説としては、筑後平野の筑後山門郡、(現みやま市)が有力だが、宇佐神宮地方などを押す説もある。
 しかし、みやま市(旧高瀬町)歴史資料館によると、山門郡が縄文から奈良時代に至るまでの遺跡の宝庫といっても良い地域でもある。
戸数7万戸という大人口を養える筑紫平野を前面に持ち、またこの平野には有名な吉野ヶ里遺跡もあり、筑後山門郡の方が確実性は高く、方角からも宇佐説はありえない。
 私は筑後山門郡(現みやま市)に邪馬台国があったと考えている。

 伊都国の所在地は誰もが依存のない今の糸島市として、筑後山門郡(現みやま市)邪馬台国説を検証してみる。
 帯方郡から邪馬台国までは1万2000里で、伊都国までに1万500里を要しているので、残り1500里が伊都国から邪馬台国までの距離となる。
この残りの距離から、南へ進んで水行十日か、あるいは陸行1月で、邪馬台国に至るという解釈をとる。
なぜなら、ORではなくANDで結んでしまうと、1500里には収まりきれないからだ。
そして、陸行1月の距離と水行10日の距離が等しいと言う事は、水行の場合は、陸行に比べると迂回しなければならない場所に邪馬台国があることになる。
なぜ迂回かと言うと、対馬と壱岐間が1000余里とされており、この両島間は2日程度で行ける事から、伊都国から邪馬台国までの距離=水行10日は約5000里ということになり、
陸行の場合(伊都国から1500里)に比べると、水行の場合は直線的ではない場所に邪馬台国がある、と言えるからだ。
 整理すると、伊都国から水行約5000里で、陸行なら約1500里のところに邪馬台国があったということになる。 
伊都国からその条件にあてはまる場所は、島原半島を迂回する有明海沿いの場所が想定される。
弥生時代には海岸がかなり後退していていた筑後山門郡はその条件にあてはまる。

 それでは筑後山門郡が邪馬台国として妥当か倭人伝記載の距離からも検証してみる。
陸行して1月1500里の場所とは、先ほど述べた1里を短里の約75mとすると、伊都国から約110キロメートルの距離に邪馬台国があることになる。

 JRの時刻表で調べると、伊都国があった糸島市の中心である筑前前原駅から、山門郡(現みやま市)の中心である瀬高駅までは76.5kmであった。
鉄道の線路や車が走る幹線道路と異なり、この時代の邪馬台国に至る道は直線的ではなく、当時の国とその隣の国を結んだ道を単につなぎ合わせたものでしかなく、ジグザグしていただろう。
その上に曲がりくねっていたから、今の鉄道の距離よりはかなり長かっただろうから、伊都国から1500里(約110km)にある邪馬台国として無理はなく、妥当なところだ。
 また、末盧国から伊都国まで500里とされており、伊都国から邪馬台国までは1500里で3倍の距離である事がわかる。
地図で唐津市(末盧国)と糸島市(伊都国)の距離と、糸島市(伊都国)とみやま市(邪馬台国)の距離を見比べると約3倍に当たり、この線からも筑後山門郡は妥当だ。
 
 陸行1月という倭人伝の記載からも、筑後山門郡が邪馬台国に妥当かも検証してみる。
陸行で行く場合、当時の中国の役人は陸行の旅は5日歩いて、1日休んだという。
すると、1月に25日歩く事になり、1500里約110キロの距離を歩くと1日に約4、5kmしか歩かないことになる。
それにしても一日に4、5キロメートルしか歩かないのは少な過ぎで、1日にもっと歩くはずで、陸行1月ならもう少し遠い所に邪馬台国があるのではないか思うかもしれない。
しかし、意外とそうでもなく、この時代は1日に歩く距離は短かった。
理由は今日のように道路が整備されている訳ではなく、岩や木の根がむき出しで、倒木があったりして、しかもヌカルミがあったり、滑ったりで歩きにくいからだ。
 
 ハイキングのコースで東京都西多摩郡檜原村に「浅間尾根コース」というのがある。
この道はいわゆる登山道ではなく、明治時代まで日常的に使われていた道であり歩きやすいハイキングコースである。
ハイキングでは払沢の滝バス停から浅間尾根登山口バス停まで歩くのが標準で、約8キロメートルの距離で、昭文社の「山と高原の地図」の「標準コースタイム」では4時間30分となっている。
この時間には昼食や休憩時間が含まれていないので、ハイキングを初めて約1年半の私にとって、この「標準コースタイム」がだいたい1日の歩く限度である。
先日このコースを歩いたが、私は「標準コースタイム」より歩く時間がかかるので、歩行時間に5時間20分かかった。
休憩と昼食時間が1時間で、合計6時間20分を要した。
5日間連続して歩くとすれば、この1日約8キロメートルは私の限度であり、
「魏志」倭人伝では、5日間連続して、しかも食事の調理をしながら歩く旅であり、この程度が実際の歩行距離だと思われる。
  
 その上、陸行1月とは四捨五入して1月という意味で、正確に1月ではなく、それ未満の日数は切り捨てられている可能性がある。
その理由は、倭人伝の記載では朝鮮半島の南端から九州までの3箇所すべてが1000余里とされており、
明らかに短い一支(壱岐)と末盧(松浦郡)間も100里の単位を切り捨てて、1000余里にしているからだ。
同様の手法が伊都国から邪馬台国までの距離の記載にもあっても不思議ではない。
事実、倭人伝の記述は、1000里・500里・100里や水行10日・水行20日などと、キリの良い単位にして修辞されている。
 例えば陸行1月とは正確には18日だったとすると、5日につき1日の休日を取るから、実際の歩行日は15日となり、
110キロメートルを歩くためには、1日約7.3km歩くことになり、軍隊の行軍ではなく、一般人が歩く距離としては妥当な線に落ち着く。
 
 筑後山門郡がある筑紫平野は、吉野ヶ里遺跡でもわかるように、弥生時代では日本列島の先進地域であった。
山門郡は単にオンが邪馬台国と同じだと言うだけではなく、方角と距離からして、邪馬台国北九州説では最有力であり、しかも、この地方は弥生遺跡も多く、今後の発掘により吉野ヶ里遺跡クラスの遺跡が発掘されることを期待している。
                                     


 3章 奴国・不称国・投馬国の位置



(1) 博多は奴(な)国でなく、不弥(ふみ)国だった


 まず奴国から推測していく。「魏志」倭人伝では、伊都国から、東南、奴国に至るは100里。東、不称国に至るは100里と書いてある。
 過去では通説であったが、今日では支持者が少ない、奴国を今の福岡市博多区あたりとすると、放射状に読むことができなくなる。
倭人伝では「東南」と書いてあるが、博多への実際の方角は東であることから、東100里と書いてある不称国の実際の方角は東北を取らざるを得ず、
不称国は海の中か志賀島あたりになり、放射線状の論理が破綻する。
 しかし、奴国は倭人伝の記述通り伊都国の東南にあり、福岡市の南隣の春日市周辺にあった。
春日市の須玖岡本遺跡から、1899年に前漢鏡30枚等多数が発掘されており、今日では「奴国王の墓」と称されている。
この遺跡は1979年~80年にかけて大規模に発掘調査されて、かめかん墓などが多数発掘されており、現在は「奴国の丘歴史公園」としされている。
ここが奴国の中心部だったと春日市では想定しており、最近の通説でも、福岡市博多区ではなく春日市を奴国のあった土地とすることが多い。

 何故、奴国についての記録が倭人伝を執筆する頃まで残っていたかというと、奴国は西暦57年に後漢に入貢し「金印」が授けられた歴史ある国だったからで、
伊都国までの各国の記載のように道順の説明の為に記載されたわけではない。
確かに今の鹿児島本線沿いのルートを取り、伊都国から筑後山門郡に至るには、奴国を通過する。
しかし、倭人伝は奴国の次に不称国を記載しており、道順の意味だとすると、私の想定する不称国では順序が逆になってしまうので、道順で書かれてはいない。
 
 春日市周辺が奴国で、不称国を今の福岡市博多区あたりとすれば、放射線状で読み込むと方角が合いつじつまが合う。
 奴国は戸数2万戸に対し、不称国は戸数一千戸と小規模にも関わらず、道順の説明のためではなく記録が残っていたのは、
かつて(57年)漢から金印を授けられた当時の都とも言える奴国の外港が不弥国だったからだと思われる。
大都市にとって、海に面する外港は重要であるから記録が残っていた。この大都市(奴国)にとって重要な外港が日本書紀では「那津」(なのつ)と書かれている。
これは奴国=博多説論者が言うように、この港街にかつての奴国があったと言う意味ではなく、那津(なのつ)とは奴国の港という意味である。
那津があった今の博多は不弥国の事である。不称(ふみ)国とは、奴国にとり「海(うみ)の国」であり、つまり「奴の津」=奴国の港という意味であろう。

(2) 謎の投馬(づま)国

 投馬国は邪馬台国までの道順の説明では必要ないのに、なぜ西晋の時代まで記録が残って、記載されているのか。
陳寿の生きていたのは、233年~297年であり、邪馬台国のことが書かれているのは、239年から247年までのことである。
投馬(づま)国は遠方にも関わらず、役所の文書倉で40年から50年間保管されていたことになり、かなり重要なる国だったのだろう。
 
 「南、投馬国に至る水行二十日」と書かれているから、方角は概ね南だから、投馬(づま)国は出雲ではありえない。
戸数は5万戸ばかりかと記載されている大国であり、水行20日であるから、水行10日の邪馬台国より南に位置している場所ということになる。
しかし、倭人伝では「女王国より以北」の国の中に投馬国も含まれるとしか解釈できなかったので、おかしなことになる。
 これは、魏志倭人伝に書かれている、「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」(岩波文庫版)をどう解釈するかの問題である。

 私は以前はこの文書は矛盾していると思っていた。このまま読むと「その余の旁国」と記載されている21の国は、女王国の南に位置してしまい、
女王国から北には、7カ国しかないことになってしまい、伊都国から陸行1月の女王国の位置からして、明らかにおかしなことになる。
これは、陳寿が「その余の旁国」の記録が倭人伝執筆の時代には国名しか残っていなかったのを、「遠絶」を理由にして詳らかな記録がないと考えたから、このような記載になったのだろうと、かつては考えていた。
実際は西晋の時代には、「女王国より以北」とした7カ国のみが、詳らかな記録が残っていたと云うことにしか過ぎないと考えたのだ。
「その余の旁国」は陳寿が考えたように「遠絶」だからではなく、単に時が経ったので国名しか残っていなかったのがその理由だと推測していた。
 従って私はこの文章は、『女王国以北』を『女王国より概ね北』の意味と解釈して、『以上の国は記録が残っており』と読み替えて読んでいた。
すると、「『以上の国は記録が残っており』その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は『記録がなく』詳らかにすべからず」と理解すべきだと考えていた。
このように解釈すれば文書全体に矛盾はなくなり、投馬国が南九州であっても良い。
また、「その余の旁国」として挙げられている21国の内、多くの国は女王国より北にあってもよく、筑後の南側に位置する山門郡に邪馬台国があっても良いと考えたのだった。

 この様に苦しく解釈をしていたが、井上光貞氏の説を読んでから「女王国より以北」という文字は、それ以前に書かれている7国に続いている文書では無く、ここから全く新しい段落が始まっており、「その余の旁国」に続いていく文脈ではないかと考えた。この読み方は井上光貞氏が、1966年のシンポジュウムで発表した読み方である。岩波文庫版の「魏志」倭人伝では、「南、投馬国に至る水行二十日」、という文書から、「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」という文書までが一段落になっていて、その後は注釈になっているために勘違いをしていたのだ。そうではなく、この「女王国より以北」以下の文書は注釈の次に続いている、「次に続く斯馬国有り、」云々と続かせていくための、前置文だったのだ。
 つまり、文書の段落としては対馬国から投馬国までは詳細に書いているところで、一段落が終わっており、「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」という文書から、詳細にかけない国々の名前のみが記されている文書となっている。
 前置文だとすれば、「女王国より以北にある、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」という読み方が出来て、「その余の旁国」は中国からは遠絶な為、という自然な読み方となり、文末の、「これ女王の境界の尽くる所なり。」という文章と整合した読み方ができる。
 更に、そのすぐ後に続く、「その南に狗奴国あり、男子を王となす。」という文章に整合していく読み方となり、女王国より以北の国を7国のみと読んでしまうと、邪馬台国と狗奴国の間に21もの国があることになってしまい、両国の戦争が説明しづらいことになってしまう。
この様に、「女王国以北」からその余の旁国を述べる新たな文書が始まっている、という解釈に変更したので、『女王国以北』を厳密に解釈する必要はなく、『女王国より概ね北』の意味とする解釈が妥当であり、例外として南の国があっても良い。

 投馬国が筑後山門郡より南だとなると南九州だが、対立している狗奴国は邪馬台国の南で今の熊本県にあったと思われるから、九州西岸方面の南はありえない。
すると九州東岸ということになり、神話で有名な日向の国が有力となる。
 日向の国 宮崎県にある有名な西都原古墳群がある西都市の中心地は「妻町」と言い、この地方の旧制中学からの高校は「妻高校」という。
妻という地名がこの地方の代表的な地名であることを伺わせる。
オンが投馬(づま)と一致しており、日向の国・妻地方、つまり西都原古墳群がある今の西都市が投馬国に想定される。
 しかも西都原古墳群は、従来は4世紀以降の古墳群とされていたが、1995年から始まった発掘調査の結果、3世紀半ばか前半からの古墳群と訂正された。
つまり卑弥呼の時代からの古墳群であり、これほど巨大な古墳群を造ったのはかなり大きな国であり、大国である投馬国であった可能性が高い。

 一大率が常駐する特別な国である伊都国を除き、他の国の副官は「卑奴母離」となっているのに、投馬国では異なる。
「卑奴母離」とは「夷(ひな)モリ」の意味で、卑弥呼からの命名か、伊都国に置かれていた一大率(いちだいそつ)という代官のような役人からの命名と思われ、辺境を護る職務の意味であろう。
このことからも、「卑奴母離」が副官となっている国は邪馬台国への統属関係が伺えるのに、
投馬国では官の「弥弥」に対応した「弥弥那利」が副官となっており、邪馬台国からの統属関係は伺えない。
 投馬国が日向にあるとすると、邪馬台国と敵対関係にある狗奴国と阿蘇山等をはさんで隣接している地理関係から、
邪馬台国にとっては同盟国なのか、あるいは、同盟国とまではいかなくとも、この国は狗奴国とは決して同盟させてはいけない重要な国だった。

 投馬国は戸数「5万戸可」という大国であり、しかも南へ水行20日と邪馬台国より南にあり、
同じく邪馬台国の南にあり対立し正始8年(247年)には交戦状態になった狗奴国には属していない国だった。
対狗奴国戦争の勝利を握る鍵として、帯方郡の役人に重要視されていた国なので、金印を授けられた大国・奴国とその港街・不弥国とともに、重要国として記録に残ったと思われる。
                                     


4章 なぜ邪馬台国畿内大和説は間違っているか



(1) 吉備国・出雲国の記載がなく、狗奴国も説明できない

 畿内説の始まりは松下見林の「異称日本伝」(1693年)が、卑弥呼を神功皇后であるとしたことから始まる。
「日本書紀」の神功摂政、39年、40年、43年、に倭人伝を引用しているから、卑弥呼を神功皇后とするためには、邪馬台国は大和でなければならなという事が前提となっている。
この前提を満足させるために、不弥国からの二区間だけ南を東と読み替え、方角を90度ずらせている。
一大率を置いた伊都国ではなく、不弥国からの二区間だけ方角をずらせるというのは、倭人伝の原文を忠実に読むことより、「日本書紀」の記載が大切だという価値観なのだろう。
 国学者の本居宣長は「熊襲のたぐいなりしもの」が神功皇后と偽って私的に派遣したものとして九州説を述べている。
いかにも国学者で、日本書紀の書き方にも通じる点だが、大和朝廷が中国に朝貢するという従属的な関係を認めたがらない。
「日本書紀」も中国への従属的な関係は認めず、「宋書」倭国伝に記載されている、中国へ朝貢した「倭の五王」は全く無視している。
 大和説だけではなく、九州説も「日本書紀」から離れて倭人伝を読み解こうとはしていない。
 邪馬台国論争に限った事ではないが、「日本書紀」の「呪縛」から解放されるべきだ。

 直線的な記述とすると、近畿以西に存在していた大国である出雲国か吉備国に触れないままに、近畿圏までの道程が書かれる事は不自然である。
この場合投馬(づま)国は、吉備か出雲だという説があるが、明らかに投馬(づま)国=吉備説は成り立たない。何故ならば、奈良盆地にあるはずの邪馬台国へ行くとすれば、瀬戸内海ルートだと、上陸地点は今の大阪付近である。そこから、奈良盆地まで、陸行一月もかかるわけがないからである。
 では、投馬国は出雲だという説はどうか、検証してみる。投馬国までの道程は水行20日であり、ここから水行10日と陸行1月で邪馬台国となる。
大和説は距離方角を直線的に読み込むので、投馬国が出雲だとすると、そこまでの距離の半分が上陸地点ということになる。
 JR時刻表の営業キロで測ってみて、博多駅から出雲の中心部付近である今の松江駅までの距離は404キロメートルであった。この半分の距離で上陸したことになるが、その距離の202キロメートルは、松江と豊岡間の203、5キロメートルとほぼ同じである。豊岡より少し遠くなるが、上陸地点を舞鶴湾や宮津湾と考えても良く、魏志倭人伝の行程距離・日数と矛盾するとは言えず、投馬(づま)国=出雲(いづも)説は成り立たないとは言えない。しかし、「周旋五千里」という国の広さが、同じ「三国志」に書かれている韓や高句麗と比べると狭いのに、投馬(づま)国を出雲としてしまうと、「周旋五千里」と矛盾するという問題は残る。
 
 しかも、大和説では、女王国と激しく対立して戦争をした狗奴国はどこにあるのかも諸説が有り、全く説明できていないと言える。
群馬県の毛野国だという人がいるが、遠く離れた大和と上州である。それでは一体どこで戦争をしたのか説明できない。
苦し紛れに狗奴国はやっぱり南九州だという人もいるが、大和と南九州で戦争ができただろうか、ご都合主義としか思えない。
その他に和歌山県の「熊野」説や、静岡県西部の「久努」説があるが、どちらもオンは似ているが邪馬台国と戦争できるほどの大きな国があったとは、考古資料からは思えない。
最近の考古資料からは、伊勢湾沿岸、とりわけ濃尾平野が注目されているが、狗奴国というオンからは説明が出来ない。
つまり、畿内説では狗奴国はどこにあったかは説明できていない。
 それに対して、邪馬台国北九州説では、熊本県の南の熊襲を含む、菊池川流域以南の勢力を狗奴国とする有力見解がある。
何故菊池川以南かというと、狗奴国の官の名前が「狗古智卑狗」で、菊池川や菊池氏が考えられるからである。
明らかに狗奴国問題では、邪馬台国北九州説が理に適っている。

 20017/8/29補足
 私はこの節で、「呪縛」という表現を使ったが、昨日「『日本書紀』の呪縛」(吉田和彦著 集英社新書2016年刊)を読んだ。私と同様に「日本書紀」の呪縛を感じている学者がいる事を知って、なんだか安心した。この書物の中では「日本書紀」とは、当時の激動的な時代情況からして、もちろん政治的な書物であることが説くかれていて、その中に、いくつか印象的な文書があったので、その一つを紹介する。著者は「日本書紀」は、将来に渡って天皇の時代が続くことを宣言した書物であるとして、以下の文書があった。
 「過去の唯一性
 未来のあるべき姿を宣言し、未来を規定するということは、それに対応するようなあるべき過去の姿を設定するということになる。あるべき未来を構想、構築するには、それを必然化するような過去の経緯が必要になるからである。かくして<あるべき未来〉をみことのりすることに対応して、〈あったはずの過去〉が要請され、それにそうように過去の創作がなされていった。
 歴史は、そもそも、それぞれの立場によってとらえ方、描き方が異なるものである。Aという人にとっての過去と、Bという人にとっての過去は、共通する事実認識や評価も包含されるが、他方、事実認識自体もしくはその評価について、大きな、あるいはゆずることのできない違いが存在する場合が少なくない。そうした差異の存在は、むしろ歴史認識にとって一般的なことと言ってよい。だが、あるべき一つの未来を宣言するのであるなら、それに対応するような過去は一つでなければならず、複数の過去が存在するという事態は極力避けられねばならない。こうして複数の過去は統一、一元化され、唯一の過去が作成されていった。」

 この文書では、<あったはずの過去>という文言が印象に残った。<あったはずの過去>としては、例えば、存在していない神功皇后が必要となり、創作されたのであろう。
 この他、よく議論になる「魏志倭人伝」の「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」という文書の解釈をより精緻にするなどの変更を行った。


(2) 3世紀初頭に、近畿圏と北九州を統一する国があり得たのか  

 邪馬台国は伊都国に一大率を置いて諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚ったというから、大和説をとると、近畿から北九州までの統一があったことになる。
 伊都国にいた一大率は中国の刺史の役割を持っているといわれており、大和説を採ると、後の時代の太宰府のようなものか。
畿内にある邪馬台国が、北九州の伊都国に一大率という役所のようなものが置かれているということは、女王を「共立」している部族連合だとしても、これは「初期国家」と言えるのではないか。しかし「初期国家」という考え方は、早くても古墳時代からと考えるのが通説であり、4世紀以降のこととすべきだが、果たしてこの時期に近畿圏と北九州を統屬する公権力、つま初期のりヤマト王権が成立していたと云うことになり、、後の歴史からしても早すぎると私は考える。
 また、近畿圏と北九州圏を統一した国土にしては、「倭人伝」に記載されている女王を共立している国の数は投馬を含めても29カ国にしかすぎない。
これは「魏志」韓伝に書かれている馬韓の「凡そ50余国」と比べて少なすぎるし、大和から筑紫にかけて広がる国土だとすると、やはり少なすぎる。
邪馬台国が畿内大和にあったとすると、卑弥呼が 共立されたのは2世紀末か遅くとも3世紀初頭とするのが通説であり、 近畿圏と北九州が3世紀初頭にはすでに統一されていた事になる。
このような説もないではないが、それは疑問だ。

* 倭国は、朝鮮半島からしか入手できない鉄を必要としていた

  国土統一つまりヤマト王権の成立が早すぎるか、検証するため、倭人伝から先の歴史を簡単に述べる。

 倭人伝によれば、景初3年(239年)から、正始4年(243年)と正始8年(247年)と、卑弥呼は3回曹魏に使者を派遣している。
一方卑弥呼の死後の壱与(台与)の派遣の時期については、倭人伝にはないが中国の史料で宋代に書かれた「冊府元亀(さっぷげんき)」に、
卑弥呼の3回目の派遣と同じ年である正始8年(247年)に壱与(台与)の派遣の記録が有る。
しかし、何を根拠としているかは書かれては無く、後の時代の書物でもあり、この正始8年の壱与(台与)の派遣は疑問だと思っている。 
何故ならば、帯方郡の太守は韓諸国との内紛で245年に戦死して不在であったが、魏志よると卑弥呼はこの247年の、新任の太守が着任した後に、郡へ使者を送っている。
卑弥呼は太守が着任したとの知らせを聞いてから、帯方郡へ使者を派遣をした事になる。
ということは、この年(247年)の半ば以降の派遣と思われ、わずか半年間に、卑弥呼が死にその後の争いの後に壱与(台与)が王となり、使者を派遣できるはずがないからだ。

 卑弥呼の死後について倭人伝は「新たに男王が立ったが、国内が服従せず、殺し合いが続いて、その時千余人が殺害された。
そこでまた卑弥呼の宗族の娘である壱与(台与)が立てられて王となってから、国内が安定した。」と倭人伝は記載している。
卑弥呼の死んだ年の記載もなく、正始8年に死亡したかも分かってはいない。
正始8年(247年)のわずか半年の間に、卑弥呼が死に、その後の内戦と狗奴国との戦いも終わり、壱与(台与)が王となり、魏の朝廷にまで使者を派遣出来たとは思えない。
 このことは重要で、壱与(台与)が女王となったのは13歳の時と倭人伝は書いているが、何年に13歳であったかは、邪馬台国がいつごろ滅んだかを探るために重要である。
壱与(台与)は正始8年(247年)には、まだ13歳ではなかったことを押さえておく必要がある。

 その後の倭人訪問の記録は、「晋書」の『四夷列伝』に記載されており、文帝在位中(255年~265年)に「倭人がしばしば至った」という記事がある。
正始8年(247年)に「魏志」倭人伝の記事が終わっており、次に倭人が中国を訪問したのは、今まで書いてきたように「冊府元亀(さっぷげんき)」記載の247年ではない。
 史料から探れる壱与(台与)の派遣は、早くとも255年ということになり、卑弥呼の死後の混乱はかなり長かったと思われる。
卑弥呼が最後に使者を派遣した正始8年(247年)から、次に壱与(台与)が派遣するまでには、狗奴国との戦争と卑弥呼の死があり、その後の内戦がある。
帯方郡の役人である張政等はこの乱が終わるのを見届けてから、壱与(台与)に送られて帰国している。
壱与(台与)の使者は張政等と共に、この時(255年)に魏の都を訪問していると思われる。
それまでに7年を要したとしても、不思議ではない。

 その後は、中国の正史である「晋書」武帝記秦始2年(266年)11月に倭人が使者を派遣したと記録されている。
これが、壱与(台与)の派遣とは書かれてはいないが、おそらく親魏倭王の称号を継いだ壱与(台与)の派遣だから記録されたのだろう。
またこの年に派遣したのは壱与(台与)の後に立ったと思われる男王だという記録(梁書)もあるが、後の時代に書かれた書物でもあり、信頼性が乏しいとされている。
これに反して、日本書紀の神攻皇后紀66年条では、「晋書」の起居注を根拠に倭の女王が貢献したと記されている。
梁書に記載されている男王は疑問で、日本書紀に残されてい「晋書」の起居注を根拠にして、壱与(台与)の派遣とすべきである。
 この秦始2年(266年)は、西晋が建国された翌年という祝賀すべき時期である。
景初2年(238年)に魏の司馬懿が公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方の二郡を収復した直後の、景初3年(239年)に卑弥呼が使者を派遣しているのと合わせて、
当時の倭国は中国を如何に重視していたのかがわかる。
これは、朝鮮半島南部でしか産出しなかった鉄を安定的に入手する為に、中国の後ろ盾が重要だったからだとしか思えない。
日本列島では5世紀までは鉄の生産(鉄鉱石や砂鉄から鉄を作ることで鉄器の製造とは異なる)が出来ずに、本格的に鉄の生産が始まるのは6世紀からだと思われている。
それまでは兵器だけではなく生産用具としても貴重品である鉄は朝鮮半島から入手していた。
このことは、「魏志」韓伝に、弁辰は「国は鉄を出し、韓(かん)・ワイ(わい)・倭(わ)皆(みな)従いて之(これ)をとる。」と書かれてあり、
倭は朝鮮半島南部から鉄を入手しており、中国の後ろ盾を必要としていた事がわかる。

 その後は「晋書」の[帝紀]に東夷諸国からの表敬訪問が書かれているが291年で最後の記録となる。
300年には「八王の乱」があり中国は混乱の時代になるから、訪問があったが記録を失ったのかもしれない。
もし壱与(台与)が生きていたとすれば、250年の即位とすると、291年には54歳であり、その頃まで倭人伝に書かれている邪馬台国と中国の交流があったとするのが自然だ。
少なくとも半世紀以上にわたり、邪馬台国と中国とは親密な関係にあり、そのおかげで倭国は朝鮮半島南部から産する鉄を安定的に入手することができた。
しかしその後中国は八王の乱をきっかけに混乱の時代に入り、東北アジアへの影響力はなくなり、倭国は中国の後ろだてがない中で、朝鮮半島南部の鉄を入手しなければならなくなった。

300年 八王の乱
304年 匈奴が山西で漢王になり独立
311年 匈奴が晋の都洛陽を占領し、皇帝を捕縛の上連行する、 
313年 楽浪郡の滅亡、帯方郡の滅亡
(この2郡の滅亡により、倭国は朝鮮南部における中国の後ろ盾を完全に失うことになる。)
 4世紀とともに、東北アジアは動乱の時代に入った。

 匈奴が独立して漢王を名乗る304年には、壱与(台与)は250年の即位とすると67才であり、この年までは生きていたとして不思議はなく、邪馬台国連合は健在だったであろう。
しかし、313年の楽浪郡と帯方郡の滅亡は、もしこの年まで壱与(台与)が存命していたとしても、晋魏倭王の名称を持つ邪馬台国の女王にとっては致命的である。
女王を「共立」して成立した邪馬台国連合は、瓦解していったであろう。壱与(台与)の後を、梁書に書かれている男王が継いでいたとしても、事情は同じである。
 邪馬台国の次に続くのは「謎の4世紀」(空白の4世紀)と言われており、初めて現れる文字資料は、倭と百済の同盟を記念した、(369年)と刻まれている倭に贈られた七支刀である。
百済から倭に送られて、奈良県の石上神社に現存している。日本書紀によると372年(干支二運して)に百済から贈られているという。
その次の外国での文書は高句麗の広開土王(好太王)碑文で、倭は391年朝鮮半島南部に進出したとして、400年と404年に高句麗と倭の戦争があったと記録されている。
この二つの文書は、「空白の4世紀」に書かれた同時代の文書であり、非常に貴重なものであるが、未だ定まった解釈が出来ていない。
 しかし、七支刀銘文で倭王のことを、百済王は「候王」としてるとしか解釈できないことは重要である。
また、朝鮮半島で、広開土王(好太王)と戦った倭を、無批判に大和の倭とすべきではないという、上田正昭氏の指摘も重要である。

 413年に「晋書」に倭の記録が有り、それに次いで書かれているのは「宋書」倭国伝の倭の五王である。
421年の倭王「賛」から、478年の倭王「武」の遣使の記録となり、いずれも、朝鮮半島南部における倭の影響力を中国南朝が認める事を求めている。

 いずれの文書も倭は朝鮮半島南部との関係を重要視していることが伺える。これは国内では生産できない鉄資源が重要で、鉄を入手で出来るのは朝鮮半島南部だけだったという事情からだと思われている。
もし3世紀初頭もしくは後半から近畿圏と北九州が統一されてヤマト王権が成立していたのならば、
国内では生産できない貴重な鉄資源の安定供給のためには、ヤマト王権はもっと早く、4世紀前半から朝鮮半島南部への進出があってもおかしくないはずだ。
しかしその記録はなく、記録があるのは、通説に従って七支刀の「倭」をヤマト王権のこととしても、4世紀後半からのことである。次に書くが、やはり3世紀からの近畿と北九州の統一はなかったとすべきだ。

(3) 邪馬台国とヤマト王権成立の時期

 東北アジアが混乱し、中国の後ろだてに頼っていた鉄の入手が困難になっていた4世紀前半に、倭国は朝鮮半島南部に進出した史料と言えるものは、「三国史記」に書かれている、早くから新羅を侵攻していたという「倭」の記録がある。しかしこの「倭」とは、朝鮮半島南部沿岸にいた倭人か、北九州の倭人でとするのが通説であり、ヤマト王権の倭とは考えられない。
 ヤマト王権が4世紀後半からは積極的に進出したとすると、その頃まで倭国内の統一事業など様々な事情が有り、朝鮮半島南部にまで進出する余力がなかったと思われる。
 中国の後ろだてがなくなり、安定的に鉄が求められなくなったのは4世紀始めからであり、3世紀から近畿圏と北九州の連合(統一)国の中心が畿内ヤマトにあったとすると、
その国が北九州に一大率を置いていたという「魏志」倭人伝の記録があり、北九州にも拠点を持っているはずの畿内ヤマト勢力=ヤマト王権は、遅くとも4世紀前半には鉄を求めて朝鮮半島南部へ、積極的に進出する余力はヤマト王権には有ったと思うが、交流していた考古遺物は残されているが、積極的進出の痕跡はない。
 通説に従って、七支刀銘文の「倭」をヤマト王権のこととすると、ヤマト王権が積極的に朝鮮半島に関与し始めるのは4世紀後半からと思われる。
何故後半からかというと、百済と同盟したのは369年のことであり、この時期は、「日本書紀」の記述から進出して間もなかったと推測できるのである。

 またヤマト王権の成立する時期は、考古学での通説では定型化前方後円墳の成立時期とされている。
考古資料のみで絶対年代を推測することは年代に大きな差があるが、寺沢薫氏の年代を参考にすると、ヤマト王権の成立時期を定型化前方後円墳の成立期とすると3世紀後半となる。
 これに対して、歴史学者の吉村武彦氏が説く崇神天皇陵の行燈山古墳の年代ともっと遅らせており、4世紀前半の成立としていている。
 このようなヤマト王権の成立時期に対して、卑弥呼の時代は遅くとも3世紀初頭であり、ヤマト王権の成立時期と一致していないので、邪馬台国畿内(大和)説では、この時代には畿内と九州が統一していたということに帰結してしまい、通説と矛盾する。
 この文書を書いた後に、最近の考古学のヤマト王権説を勉強してみたら、最近では箸墓古墳を3世紀半ばの卑弥呼の墓として、この時期にヤマト王権は成立したというのが通説となっているようだ。しかし、卑弥呼共立は遅くとも3世紀初頭という事では、矛盾は残る。

 詳しく年代を述べると、卑弥呼が女王に共立された年代を推測するものとして「魏志」倭人伝の以下の文書がある。
「その国、本(もと)また男子を以て王となし、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐する(攻めあう)こと歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」
この有名な一節から、卑弥呼共立の年代を探ることになる。
「倭国乱」の時期については、魏志倭人伝より後に書かれた「後漢書」では、この時期を「桓霊の間」(178~189)としており、卑弥呼共立の時期を2世紀末とする説がある。
しかし「桓霊の間」とは何を根拠としているのか分からず、混乱の代名詞のような言葉でもあり、考古学者の寺沢薫氏は考古資料から3世紀初頭が卑弥呼共立の時期としている。
私も卑弥呼が最初に魏へ使者を派遣した年が景初3年(239年)であることから、妥当ではないかと思う。
 すると、卑弥呼共立の年代は2世紀末か3世紀初頭であり、「伊都国に一大率を置き諸国を検察せしむ」という文書からして、
遅くとも3世紀初頭には、北九州にまで支配しているヤマト王権が成立していたと論理的に帰結してしまい、邪馬台国の成立がヤマト王権の成立となる。
これは考古学では通説とされている、定型化前方後円墳体制=ヤマト王権の成立時期より早すぎて、邪馬台国畿内(大和)説は成り立たないといえる。

 これに対して、ヤマト王権成立時期の考古学界でのかつての通説は、3世紀後半から4世紀初頭とされている箸墓古墳などの定型化前方後円墳の成立時期にヤマト王権が成立したという説であり、この場合は邪馬台国畿内大和説とヤマト王権成立とは直接的にリンクしていなかった。
 ところが近年の考古学では、定型化前方後円墳の成立時期は3世紀中ごろとかなり年代をさかのぼるのが通説となり、邪馬台国畿内大和説とヤマト王権成立がリンクして説かれるようになった。
 しかし、3世紀半ばにヤマト王権が成立していたとすると、北九州にある「伊都国問題」が生じる。
魏志倭人伝に書かれている3世紀初頭の邪馬台国は北九州の「伊都国に一大率を置き、女王国より北方の諸国を検察せしむ」という事をどのように理解すべきかと言う問題である。
 当然、邪馬台国の時代である3世紀初頭に近畿圏と伊都国がある北九州の連合があったとすべきで、何故ヤマト王権の成立時期を3世紀半ばまで遅らせるのか、という疑問が生じる。そもそも、北九州にある伊都国の一大率が、何故、伊都国から遠く離れた大和の北方を検察しているのか、というジレンマも生じている。
 いずれにしろ畿内大和説は、方角問題と共に伊都国問題という文献史料とのジレンマを抱えている。

 しかも、邪馬台国畿内大和説に立ち、定型化前方後円墳成立を以てヤマト王権の成立とすると、邪馬台国連合は壱与(台与)の時代を経て、その後ヤマト王権に社会進化していったという説をとらざるを得ないといえる。
 しかし、「日本書紀」も「古事記」にも、卑弥呼や壱与(台与)を連想させるような、女王の伝承は全く残っていない。
「日本書紀」は神功皇后紀39年条に魏志倭人伝を引用して倭の女王と書いているが、神功皇后は女王ではなく、日本書紀の編纂者は無理に卑弥呼と神功皇后を比定せざるを得なかった。
 この事は邪馬台国畿内説にとっては決定的に不利で、邪馬台国が畿内にあったとすれば当然「古事記」や「日本書紀」に卑弥呼を連想させる女王伝承が残っているはずだが、それがない。つまりヤマト王権にまつわる伝承には、卑弥呼や壱与(台与)は含まれていなかったと言うべきである。
ヤマト王権にまつわる伝承には、卑弥呼や壱与(台与)は含まれていなかったという事は、邪馬台国が畿内大和には無かったという事に帰結する。
 私はヤマト勢力社会進化説でヤマト王権成立の時代を決めるとなると、文献史学の吉村氏が説く定型化前方後円墳成立の後とされている、4世紀前半の崇神天皇陵とされている行燈山古墳の時期とするのが、様々な観点からして最も合理的だと思う。
 しかしそうだとしても、「記紀」に卑弥呼や壱与(台与)を連想させるような、女王の伝承は全く残っていないのは、邪馬台国畿内大和説を採ると、不自然の感は免れえない。

 更に、3世紀までの遺跡からの鉄器の出土例を比べると、近畿に比べると圧倒的に北九州の方が多い事が判明している。
これは、広島大学の川越哲志氏等の調査結果である「弥生時代鉄器総覧」(2000年)により判明した、新しい発見である。
県別に見た鉄器の出土数では、3世紀中葉までは福岡県・熊本県・佐賀県が圧倒的に多い。
奈良県に至っては本格的に出土するのは、やっと3世紀になってからで、3世紀中葉になっても出土数は少ない。
 このことは2世紀末から3世紀前葉にはヤマト地方に有名な纏向遺跡が登場するが、鉄器はほとんど使用されていなかったことを物語っている。
纏向遺跡は卑弥呼の時代と併存しており、これが邪馬台国畿内ヤマト説の有力な考古資料となっている。
しかし、少なくとも3世紀中葉までの鉄器の出土数は、北九州の方が近畿地方よりは圧倒して多く、纏向遺跡を作った勢力は北九州にまでその影響力を及ぼしていなかったと云うべきだろう。
 鉄器の使用が多いと云うことは、鉄の武器と鉄の農機具を持ち、まだ石器が主流の地域より圧倒的に強い武力と、高い農業生産力があったと言える。
そして魏志倭人伝に書かれている、北九州にある伊都国や奴国は邪馬台国のまぎれもなく範囲である。
畿内大和説だと、武力でも農業生産力でも劣る地域が、農業生産力でも武力でも勝る北九州に支配力を及ぼしていたということになってしまい、そう云うことはあり得ないと言える。
 この鉄器の出土例の調査結果は2000年に発表された書物であり、長い邪馬台国論争の歴史では最新の調査といえる。
この調査に対する畿内大和説からの反論としては、畿内では出土例が少ないのは、鉄器を鋳つぶして再利用したからだというのがある。
しかし、なぜ畿内だけ再利用したとするのか、合理的に説明できておらず、苦し紛れの感を禁じえない。


         あとがき

 この文書をHPに載せた時は、まだ不慣れで大変読みづらいものだったので、新たにページを作り直して改版として載せなおした。
実は、ヤマト王権成立の勉強をしてからHPを直そうと思っていたが、かなり時間がかかりそうなので、まず改版として載せなおしたのだった。
 ヤマト王権について勉強してみると、この改版の文章は最初に載せた2012年12月のままで、
4章の(2)は、かなり曖昧だったので、題名からして書き換えて、大幅に書き直し2013年に改訂版とした。
以前は「3世紀に統一国家(近畿圏と北九州)がありえたか」という題名だった。
書いた時から統一国家という文字に違和感を感じていたし、また3世紀という長い年代を、もっと短い年代に絞り込む必要を感じていた。
 「国家」というからには、やはり法と官僚制度を伴っていない限り使ってはならないだろう。
それで、改訂版では卑弥呼が伊都国に一大率を置いていることを前提に「初期国家」という過渡期の概念を用いてみた。
しかし、官僚制度と租税制度が有ることのみで「初期国家」とするのには無理を感じている。
それで、4章の(2)の表題には、「初期国家」にも至らない時代を含む概念として「国」という言葉を用いた。
更に大和朝廷(王権)となっていたのを、3~4世紀に「朝廷」というのは、この時代に「国家」を用いるのと同様におかしく、近年の歴史学が使うヤマト王権に改めた。

                2016年1月6日に加筆して改題する                              

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