石川啄木とテロリストの悲しき心



 今日(2015年4月13日)の東京新聞一面の「平和の俳句」に以下の句が載っていた。

 テロかなし ゆえに智を説け 啄木忌

 評者の一人は「啄木は智の人だったと作者は言う。平和の基礎は豊かな智なのだ。」と評している。
果たしてそうだろうか疑問を持った。

 啄木は晩年の詩「ココアのひと匙」で、
「われは知る、テロリストのかなしき心を―」
と歌っている。
26歳の若さで亡くなった啄木であるが、その晩年は社会主義思想に惹かれて、革命を考えるまでになっていた。
天皇暗殺を企てたとされる大逆事件に関心を寄せ、詳細に調べ上げた。
結論は、事件は社会主義者を葬り去るためのデッチ上げだとして、幸徳秋水らの無罪を確信するまでになっていた。

 啄木はテロリストの心を、「言葉とおこなひとを分ちがたき心をー」と詠んでいる。
自分たちの激論の後の心情、誰ひとり 『‘V NAROD!’と叫び出(い)づるものなし。』
という自らの心情を、テロリストの心情と同一のものとして捉えていたと思える。
だとすると、この句の作者は、テロリストの悲しき心情を理解していた啄木の命日(4月13日)を目前にして、
テロリストの心情は、決して力では抑えられない。
武力ではなく、もっと知恵を出し合わなければならないと説いているのだと解釈する。
果たして、知恵を出しあったところでテロはなくなるのだろうか。
啄木は明らかに、自らの心情とテロリストの心情を同一化していると私は思う。。
啄木の「ココアのひと匙」の解釈が問われる。

 この評者とは違う別の評者は、、同じ東京新聞の紙面で、この句を次のように解釈していた。
「テロを力で抑えることはできない。ゆえに・・・・・と詩人の忌日思う。」とあった。
同じ紙面で、かなり違う解釈が掲載されている。
「テロかなし」という文字から、「テロを力で抑えることはできない」という解釈をとっている。
啄木の詩集「呼子と口笛」に収められている、「ココアのひと匙」から得られる解釈では、私もそうなると思う。

 なお明治時代のテロとは、今日のアルカイダやIS(イスラム国)のテロのように、
組織が行う、大規模で無差別な殺戮とは異なっており、組織から逸脱した者たちの行為だった。
幕末から、明治の自由民権運動の頃まではテロが横行した。
井伊直弼の暗殺や、大隈重信爆殺未遂事件(怪我だけで済んだ)などは、水戸藩や自由党の方針に絶望した者たちが行ったテロで、
今日のISやアルカイダ等の組織が行う、大規模なものとは明確に異なっており、要人の暗殺であった。

 我らは啄木の時代のように、まだ言葉は奪われてはいないだろう。
しかし言葉が奪われたら(最近の政府のマスコミ対応が気になる)・・・・・・どうなるのであろうか。
おそらく、智の人であっても、テロに魅力を感じる人々は増えるであろう。
昨日のNHK大河ドラマの吉田松陰がそうであった。
武力に頼らずテロをなくすためには、智慧が必要で、その智の要は言論の自由だと思う。
人類はつい最近まで、戦争で権力闘争をしていた(未だそんな地域は残っている)が、今は選挙戦に変わった。
この俳句の作者は、そのような知恵が問われていると詠んでいる。


「悲しき玩具」にも書かれている、テロリストの悲しき心

 啄木は死ぬ直前に書いたと思われる歌集「悲しき玩具」にも、次の歌を残している。

友も、妻も、かなしと思ふらし―
病みても猶(なお)、
革命のこと口に絶たねば。

やや遠きものに思ひし
テロリストの悲しき心も―
近づく日のあり。

 この歌集「悲しき玩具」も、テロリストの心を詠んだ詩集「呼子と口笛」もともに啄木の死後に、友人(若山牧水ら)の手により出版されている。
啄木は結核のため、明治45年(1912)4月13日に東京小石川の借家で、赤貧の中で亡くなった。今日がその103回目の命日である。
その命日に、「啄木は智の人だったと作者は言う」という評論では、啄木が可哀想だ。
激論の後のココアのひと匙から、テロリストの悲しき心を味わったのは、啄木自身だという解釈を取るべきだ。
勿論、啄木が共感を込めて言う「テロリストの悲しき心」とは、「今日横行しているテロ」の心とは明確に異なっている。

 そのことを理解するために、テロリストの悲しき心等を詠んだ詩集「呼子と口笛」の中から、冒頭五つの詩を青空文庫から転載する。


       呼子と口笛
                          石川啄木
 はてしなき議論の後
                  一九一一・六・一五・TOKYO

われらの且(か)つ読み、且つ議論を闘(たたか)はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜(ロシヤ)の青年に劣らず。
われらは何を為(な)すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出(い)づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出(い)だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭(らふそく)はすでに三度も取り代へられ、
飲料(のみもの)の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。


 ココアのひと匙
                    一九一一・六・一五・TOKYO

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目(まじめ)にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触(したざは)りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


 激論
                         一九一一・六・一六・TOKYO

われはかの夜の激論を忘るること能(あた)はず、
新しき社会に於(お)ける‘権力’の処置に就(つ)きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
われとの間に惹(ひ)き起されたる激論を、
かの五時間に亘(わた)れる激論を。

‘君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家(せんどうか)の言なり。’
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。
若(も)しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃(う)ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲(みなぎ)れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓をあけたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽(さわや)かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心(しん)を截(き)るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女(ぢょ)は初めよりわが味方なりき。


 書斎の午後
                       一九一一・六・一五・TOKYO

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零(こぼ)したる葡萄酒(ぶだうしゅ)の
なかなかに浸(し)みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


 墓碑銘
                  一九一一・六・一六・TOKYO

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶(なほ)尊敬す――
かの郊外の墓地の栗(くり)の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経(へ)たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
‘同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能(あた)はず、
されど、我には何時にても起(た)つことを得る準備あり。’

‘かれの眼は常に論者の怯懦(けふだ)を叱責(しっせき)す。’
同志の一人はかくかれを評しき。
然(しか)り、われもまた度度(たびたび)しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯(しんし)にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横(よこた)はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語(うはごと)を口にせざりき。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕(ゆふべ)、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌(てっつゐ)のごとき腕(かひな)と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰(えら)びたる墓碑銘は左の如し、
‘われには何時にても起つことを得る準備あり。’



  追記
                           (2015年11月13日記)
 このホームページを読み返していて、気づいたのだが、ココアのひと匙を書いたのは6月15日である。
 一九一一・六・一五・TOKYOと書かれている。
それから約半世紀たった、1960年6月15日、国会門前において樺美智子が死亡した。
激しい反安保闘争のさなかの出来事であった。
この歌が書かれた日は、奇しくも約半世紀後の同日に、国会門前で樺美智子が死んだ日であった。

 そして現在2015年は、彼女の死から、更に半世紀以上の時が経っている。

 啄木が関心を持った大逆事件で、幸徳秋水が逮捕されたのは1910年。
翌1911年1月24日に幸徳秋水ら11名が処刑され、翌日の25日には菅野スガも処刑された。
社会主義者である大杉栄や荒畑寒村らは、赤旗事件で獄中にいたため、事件の連座を免れた。
 しかし大杉栄は、関東大震災(1923年)の時に憲兵に連行され、伊藤野枝と6歳の甥と伴に殺害された。

 幸徳秋水らの処刑、大杉栄らの虐殺、そして反安保デモでの樺美智子の死。
そんな事等などを、一九一一・六・一五・TOKYOと書かれている事から連想した。
そして、戦後70年の今日、ただならぬ不気味さも。

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