第1日目その1 2001年1月1日(月) 晴れ 日本橋−品川−川崎−神奈川−保土ヶ谷−戸塚
お江戸日本橋七つ立ち
日本橋は慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開いた年に架橋され、街道の起点と定められた。現在の橋は、明治44年(1911年)に完成したものである。
東海道スタート前の項に書いたのように予定より若干遅いスタート(午前4時42分)となったが、一応当初の目的どおり元旦に「お江戸日本橋七つ立ち」で東海道を歩き始めた。日本橋からは国道15号(中央通り、新橋からは第一京浜と呼ばれる)を京へ向けて進む。今日の目標は、まず午前9時に鶴見の自宅に到着し家族で元日の朝食を食べ、その後再び歩き始め、日の入り前に戸塚まで歩くことである。
今回のコースは部分的にはこれまでに何度も歩いているが、私の場合、ある程度の距離を歩くときは目的地に向けて歩き、帰りは電車を利用するパターンが多いので、川崎から東京に向けて歩くことは多いが、東京から川崎に向かうことはほとんどないので、多少新鮮味はある。また、夜明け前に歩くことはないので、これほど人が少ない中央通り(写真左)というのも街道らしくて良い。日本の道百選に選ばれているだけのことはある。
東海道では都内に一里塚があるという情報は得ていないが、大門を過ぎて金杉橋のところが4キロ地点である。道全体が盛り上がっており、一里山という雰囲気か。
三田の歩道橋からは電飾の東京タワーがきれいに見えたが、三脚なしでオートモードで夜景を写真に収めるのは難しい(写真右)。
午前5時55分、高輪大木戸跡。ここは東海道の江戸の出入り口とされている。造られたのは、宝永7年(1710年)である。本来、石垣は道の両側にあったが、海側のものが今も残されている。品川駅が近づいてくると東の空が徐々に明るくなり始めた。昔の旅人は日本橋を明け七つに出発すれば、高輪当たりで夜明けを迎え、提灯を消したそうなので、ちょうどいい感じである。
品川宿
品川宿は江戸を出る旅人を見送る人と、江戸に来る人を出迎える人で賑わった宿場である。広重画では海に面していたが、現在は埋め立てで歩いていて海を見ることはない。
八ツ山橋のところで第一京浜とは分かれ、京浜急行の北品川駅に近い方の踏切を渡り旧東海道の品川宿に。ここは旧東海道を意識した街並みになっている。「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」なるものが推進しているようである。品川宿周辺も店のシャッターが閉まっている時間に歩くのは初めてで、シャッターに描かれている旧東海道らしい絵が街道を歩いている雰囲気を盛り上げてくれる。午前6時27分、「日本橋より二里」の標識の立つ品海公園に(写真右)。1時間45分で二里。距離が正しいとすれば、写真を撮ったりしていることを差し引いても自分としては遅いペースである。9時に鶴見に着くにはペースを上げなくてはならない。来ようと思えば、電車を使えば30分、写真は後日にいくらでも撮れるので、時速7キロの早歩きモードに切り替える。(本などには日本橋から品川宿は7.8キロとなっているので、この二里の標識は合っていそうだが、現在の国道の日本橋から7キロ地点からここまで1.5キロくらいある。)
この周辺には東海七福神があるのだが、今日のところは時間の関係で七福神巡りは後日に(1月7日に参拝記念しきしに印を集めて巡りました)。旧道沿いの品川寺(ほうせんじ)には江戸六地蔵の一番である露座の大地蔵がある。
鈴ヶ森〜蒲田
浜川橋の手前で日の出の時刻。雲が掛かり21世紀最初のご来光はまだの様子。浜川橋は「泪橋」とも呼ばれる。鈴ヶ森刑場に護送される罪人が縁者と涙を流して別れた場所である。鈴ヶ森で処刑された人には、八百屋お七などがいるようです。ちゃんと合掌して通りましょう。礼節をわきまえない人は、そこを管理している住職に怒られるかもしれません(警告の張り紙が・・・)。鈴ヶ森刑場跡から1キロほどは国道15号(第一京浜)を進み、平和島へ向かう道と交差した次の信号で旧道は左斜めに入る。
京浜急行の大森町駅近くの交差点に石の道標があり、「旧東海道 日本橋より 三里八丁」と彫られている。いつの間にかビルの上層部には陽が当たっていて、交差点などでビルが途切れたところで21世紀のご来光を見ることができた。
2001年の元旦と言えば、伊能ウォーク最終日。午前7時に川崎を出発し、国道15号で東京に向かうはず。と言う事は途中ですれ違う。是非見てみたいが、集団は途中大田区体育館に寄る予定。逆算すると先頭は8時には体育館に着くだろう。思惑通り蒲田を過ぎたところで、伊能ウォーク最終日の大集団に遭遇(写真左:先頭とすれ違ったのが7時44分)。歩くの好きな人って多いですね。集団は途切れ途切れながらしばらく続きました。
大田区体育館の国道を挟んだ向かい側には梅屋敷公園がある。京浜急行線の駅名にもあるので名前は知っていたが入ったことは無かった。元旦の東海道ウォークのときも素通りしたが、後日訪れてみた(写真下左)。かつては道中常備薬として旅人に珍重された和中散の売薬所でもあり、梅林のある休み茶屋であった。現在、茶屋は無いようだが、里程標の復元されたものがあり、距日本橋三里十八丁と彫られている(写真下中)。また、相撲場もあり、少年たちが稽古に励んでいた(写真下右)。
六郷橋
多摩川を渡る手前の六郷神社(こんなに大きな神社とは知らなかった)には六郷橋が木橋だった時代の橋柱(写真下左)がある。また、橋を渡る手前の北野天神(止め天神、国道の橋のたもと右側、堤防の手前)には六郷渡し跡の碑(写真下中)があり、日本橋へ四里半と書かれている。8時15分、新六郷橋(ほぼ地元だが新が付くとは知らなかった)からは右手に富士山がきれいに見えた(写真下右)。橋の途中から神奈川県となる。
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