第7日目その1 2001年5月3日(木) のち曇り 島田−金谷−小夜の中山−日坂−掛川−袋井


ちょっと寄り道:蓬莱橋

蓬莱橋蓬莱橋 昨日からの雨は相変わらず降り続いているが、午前8時15分、ホテルを出発。せっかく島田まで来たのだから、東海道からは少し離れるが、島田駅の南東に位置し、大井川に掛かる木製の賃取橋である蓬莱橋(ほうらいばし:現在の橋脚はコンクリート製)に立ち寄ることにした。

 途中、堤防沿いの道は歩道がなく、クルマはかなりのスピードで走り抜けていく。大きな水溜りが気になったが、案の定、思いっきり雨水を跳ね掛けられ、朝から右半身がずぶ濡れになってしまった。

 蓬莱橋は長さ897メートルで世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されており、風情もあって良いのだが、雨が余分である。通行料は歩行者は往復50円であった。向こう岸に渡り、少し丘を登れば牧之原大茶園が見渡せるようであるが、雨のため、橋の途中で引き返してしまった。


島田宿
広重画-島田 島田宿は、大井川の東岸に位置するため川越しで賑わった。越すに越されぬ大井川と唄われるが、通常時は川幅が広いため深みも少なく、宿駅制度が制定される以前は、各人が浅瀬を選んで歩いて渡っていた。しかし、流れは速く、川底は丸砂利ですべりやすく、川の瀬も分からない旅人には命がけであった。また、大雨の後などは水深も背丈ほどになり、川留は年間50日程度あった。連続では、最長28日間という記録があり、旅人を困らせた。

大井神社 東海道に戻る。前日の続きからだと、まず街道右手に大井神社(写真右)がある。川越しの安全を守る神だが、近年は安産の神として信仰されているそうである。

 しばらく進むと島田市博物館に向かう左への道を行く。この辺りは吉原のように街中に大きな工場があるが、いつしか大井川川越遺跡(下写真)となり町並みが一変する。自由に見学できる建物もあるが、居住者のいる建物もあるので注意が必要。川会所には蓮台などもあった。

 川越制度は明治3年に廃止され、島田宿人の1/3に当たる人足がリストラされたそうである。

川越遺跡家並み 番宿 大高欄連台


川越広場大井川橋 堤防近くでは左側に朝顔の松、右側が島田市博物館(9時〜17時:大人300円:ウォーキングきっぷの割り引きを受ける)である。雨宿りも兼ねてしばし見学。 

 土手を越えると川越広場にミニチュア東海道(写真左)がある。各宿場ごとに広重の宿場絵銅板パネルと歌碑等がある。

 空は明るくなってきてはいるが雨足は相変わらず強い。昔なら増水した川で足留めさせられたことだろう。渡しが行われていた場所から大井川橋までは約500メートル離れている。橋(写真右)を渡るとき、時刻は10時25分であった。


金谷宿
広重画−金谷 大井川は駿河と遠江の国境でもあった。金谷宿は、大井川の西岸の宿場であるが、その土地は「天正の瀬直し(てんしょうのせなおし)」と言われる事業により、現在より西寄りに流れていた大井川の流路を東に変え、現在の金谷河原が造られた。

 橋を渡り終えたら左への道を行く。島田方向を見やると工場が多い。橋から約200メートルほどのところ、右に下っていく道(写真右)が旧道である。

 途中、大井川鉄道の線路を横断する。運が良ければ(時刻表を調べておけば)SLを見ることができるかも知れない。踏切を越えたところで、川越資料館や菜飯田楽を食べれる「よし善」に行くには左折するが、東海道は道なりに進む。
 
金谷一里塚跡 金谷駅の手前に金谷一里塚跡(写真左)。その角を左折し、カード下を潜ったら右折。坂を登って道が合流したところで振り向くと、石畳への案内標識がある。

 坂をほどなく登ると石畳茶屋(下写真)に到着。時刻は11時10分。煎茶セット(300円:ここでもJR割引適用:2001年の企画)を所望する。お湯はポットで出てきたので、この後の山道に備え、十分に水分補給を行った。

石畳茶屋外観 石畳茶屋店内 煎茶セット



金谷坂・菊川坂

金谷石畳 島田からまだ4キロほどなのに11時半。雨が降っていたとはいえ、遅いペースだ。金谷坂石畳(写真左)を登り始めるとき、雨は降っているが薄日が差し出した。茶畑金谷坂の石畳は平成3年に復元されたものである。

 登り終えると東海道は右へ。茶畑が広がりだす(右の写真は菊川坂を下った後のもの)。途中のある店で八十八夜摘みというお茶を売っているようであったが値段は不明。昨日が八十八夜である。非常に惹かれるものがあるが、ここは先を急ぐ。
 右手には諏訪原城跡がある。天正元年に武田信玄の武将が築城、勝頼の代に再建された。

菊川坂石畳 県道を横断すると、菊川坂石畳。東海道四〇〇年祭にあわせて復元されたもので、私が歩いたときは、復元工事は終了しているようであった。雨が振った後の山道では足畳はありがたい。新しいので、まだこけは生えていない。今では金谷側より石畳の区間が長い。この後は、小夜の中山方面という案内を頼りに進む。

 山間の菊川は間の宿であり、その歴史は古いようだ。東海道本線の菊川駅からは直線でも約7キロ離れており、山もあるので金谷駅の方が近い。国道1号は500メートルと離れていないが、バイパス化されていてバス路線もないようだ。


小夜の中山

小夜の中山 茶畑 小夜(さよ)の中山峠は、箱根峠・鈴鹿峠とともに東海道の三大難所と云われている。しかし、登る前そんなことはすっかり忘れていた。前日の宇津ノ谷峠や先ほどの金谷峠の石畳を難なく越え、気が緩んでいたのかもしれない。登りが続き、勾配も今までよりある。茶畑(写真左)が見事なので、風情を感じながら登ることができるが、延々と登る。夏場はかなりきついだろう。途中、駿河湾も見渡せる。

 登りきり平坦になったころに久延寺(きゅうえんじ:写真下)がある。ここには久延寺夜泣石がある。夜泣石(よなきいし)伝説は、微妙に違ういくつかの話が伝わるが、久延寺内に書かれている内容はこちらを参照(56KB)

 また、久延寺夜泣石と国道パイパス沿いの小泉屋の裏山にある夜泣石(下写真右端:撮影は街道ウォークとは別の日)との関係にも色々ある。まず、明治元年までは広重画の日坂宿に見られるように街道の真ん中にあったのだが、明治天皇がお通りになられるということで、日坂村の杉本権蔵(日本初の有料道路中山新道建設者の1人)と小夜の中山の茶屋「小泉屋」の主人の融資により、久延寺境内に移した。次に明治13年に東京・浅草で勧業博覧会が開かれたときに、久延寺の住職は夜泣石を見せ物にしようと重さ900キロの石を運んだ。しかし、先に東京の興行師が中に赤ん坊を入れた偽物の夜泣石を造り、大もうけをした。泣くはずのない本物は勝ち目がない。帰りの船賃も無いので、焼津・和田港まで運ばれ、ほったらかしにされていた。半年経って、杉本権蔵と小泉屋が、現在の国道沿いの小泉屋の裏山に運んだ。これで終らず、昭和11年、東京・銀座の松坂屋で開かれた静岡物産展で夜泣石が見せ物になり、今度は大好評であった。その翌年、所有権をめぐって、久延寺と小泉屋の間で裁判になり、久延寺が敗訴した。これほど商魂に利用された石も珍しい。あれっ、久延寺の石は何物?

久延寺 久延寺夜泣石 夜泣石跡 本家?夜泣石



扇屋 久延寺から東海道を西に進むと左手に西行歌碑、右手に子育て飴などを売る茶店扇屋(写真左)がある。ここで100円の水あめ(夏場はすぐにタレ落ちるそうなので要注意)と150円のラムネを飲み、小休止。時刻は12時35分。
小夜鹿一里塚跡
 東海道を西へ進むと、左手に佐夜鹿一里塚(写真右)、鎧塚があり、右手には遠方の山に「茶」の文字が浮かび上がる(写真左下)。街道沿いには妊婦の墓、芭蕉句碑、夜泣き石跡、広重絵碑などがある。この後、七曲がりの急坂と呼ばれる坂となる。勾配は急になり、下りでも大変である。箱根西坂のこわめし坂に勝るとも劣らない坂である。注意しないと膝にくる。

山に茶アート ここを下っている途中、東海道を歩いている人に出会う。関西の人で、今日は見附から歩いてきたそうだ。今日中に府中を目指しているらしい。時刻は1時20分。府中は厳しいと思われるが、この3日間で小田原まで行くらしい。かなり自信があるとみた。是非頑張ってチャレンジしてもらいたいと思ったが、と同時にそのペースは真似したくないとも思った。

 坂を下り終えると、日坂バイパスの下を通り、国道1号に出る。国道を横断し、少し右に行き左への道を入ると日坂宿である。


6日目その2
岡部宿〜島田へ
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7日目その2
日坂宿〜袋井へ