第7日目その2 2001年5月3日(木) のち曇り 島田−金谷−小夜の中山日坂−掛川−袋井


日坂宿
広重画-日坂宿 日坂の地名は、小夜の中山の西坂に由来する。他に、入坂、新坂とも書かれていた。日坂宿の初見は鎌倉時代の書物とされる。小さな宿場ではあるが、小夜の中山や大井川が近いこともあり、伝馬宿として重要な存在であった。
日坂宿本陣跡
 小夜の中山を下り、国道1号に少し分断された道を横断すると、日坂宿である。ここも古い面影の残る町並みである。現在の日坂幼稚園が扇屋本陣跡(写真右)である。

 ここで少し歴史の話。約400年前、日坂宿の男たちの大半は、旅人や役人の荷物を運ぶ人足として働いていた。江戸時代、大名の往来が多くなり仕事は増えたが、大名は金払いが悪く、早くて三年後ということで、大変貧しい生活をしていた。本陣(本によっては問屋)の片岡清兵衛という人が、日坂の貧しい人足を救うため、手当金をなるべく早く支払ってくれるよう江戸幕府に直願した。天下太平の世と言っても幕府に訴えたり、直願することは死罪に等しかった。清兵衛はそれを知っていたが、宿場のために命を掛けて直願した。結局、死罪になってしまったが、毎年、五百十六俵の手当て米が日坂宿に支給されることになった。このとき、お上が水戸黄門や徳川吉宗だったら死罪にはならなかっただろうに。

 現代の東海道に戻る。末広亭(下写真左端:池田屋)は現在も宿泊できるところのようだ。旅籠川坂屋(下写真)は岡部の柏屋のように室内を見学できる。規模はそれほど大きくはない。基本的に平日は休みだが、無料で見学できる。歩き出すと、また、雨が強くなりだした。宿の外れには復元された高札場や下木戸跡(下写真)がある。

川坂屋 復元高札場
旅籠末広亭 川坂屋 高札場 下木戸跡



事任八幡宮 国道と合流したところの歩道橋を渡ると事任(ことのまま)八幡宮(写真左)がある。創立は不明だが、大同2年(西暦807年)、坂上田村麻呂が東征の際、現社地へ遷座されたと伝えられ、願い事のままに叶うありがたき社ということで知られる。本当かどうかは普段(他の神社仏閣)と違う願い事をしないと分からないかもしれない。

 しばらくは国道沿いの歩道を歩く。時刻は午後2時となったが、国道には袋井まで14キロの標識が。掛川で御城下まつりに立ち寄ることを考えると、日没までに見附までは行けそうもない。今日は袋井までにしよう。こういう気持ちになると、優勝を諦めたマラソン選手の如くである。自分では普通に進んでいるつもりだがペースが上がらない。
一里塚跡
 掛川バイパスのインターを過ぎた後の分岐点で、左の菊川方面(小夜の中山の手前の集落ではなく菊川駅の方)へ向かう道が旧道。しばらく進み、左に曲がると菊川に向かう道のところは、そのまま直進する。そこの右側に伊達方一里塚(写真右)がある。

 一度国道に合流するが、再び斜め左に入る道が旧道。次に国道に合流した後は、しばらく国道を進む。


掛川宿
広重画-掛川宿 掛川城の城下町である。本格的な町づくりを行ったのは、山内一豊であった。また、秋葉詣での参拝客でも賑わった。天守閣は平成6年に木造建築で復元された。
本村橋交差点
 国道を進んでいると、いかにも旧道っぽく斜めに入る道があった(写真右:後日撮影)。持っていた本には「成滝で左に折れ」となっていたが、交差点の名前(本村橋)が違っていたので直進してしまった。後で調べるとこの斜めの道で良かったようである。(市販の地図には今でも成滝と書かれているものが多い) 結局、私は国道を直進し、葛川の交差点から旧道に向かった。これにより掛川バッティングセンターには立ち寄れなかった。
葛川一里塚跡
 馬喰橋を渡ると振袖餅屋に江戸から58番目の馬喰橋一里塚跡。このときは発見できなかったが、後で調べると本には道路の向かい側に葛川一里塚(写真左:後日撮影)とある。何故、道を挟んで一里塚の名称が違うのだろう。そして、葛川の方には江戸より56里と書かれている。ちなみに京都より69里とも書かれている。

 相変わらず小雨が降り続いていたので本を取り出すのが面倒になっていた。日坂からは道が濡れていないのに傘を差す羽目に陥っている。雨雲を引き連れて歩いているのだろうか?

 掛川の新町七曲がりは入り口には標識があった。後はそれらしいところを歩き、掛川城の大手門に着いたとき、時刻は午後3時20分。掛川御城下まつりの大名行列は終わってしまったようだ。三の丸広場では楽市が行われていた。まともに昼食を取っていなかったので、何か食べようと思ったが、これといったものはないようだ。それに雨で縁台が濡れていて座っている人がいない。このとき雨は止んでいた。ビニルに覆われているのだから店を出している人が拭いてくれれば良いのにと思ったが、商店街に戻り、ラーメンを食べた。

掛川城 大手門 三の丸広場 こだわりっぱ



 さらに、ある店の前で「掛川一おいしいコロッケ」なるものを売っていたので1ヶ買い(90円)、食べた。また、東海道沿いのお茶屋さんで、お土産用の新茶を購入した。時刻は午後4時を過ぎている。

 東海道は、商店街を西に進む。清水銀行(写真下)は、宿場の雰囲気が漂う造りである。道なりに右に曲がり、少し行くと十九首塚の案内板がある。街道からは50メートルほど入ったところにあり、平将門以下19名の首を埋めたと伝えられる場所である。

 この後、道はイの字の分岐となる。先ほど右に曲がったのだから、今度は左だろうと思い、左折したが間違いであった。正しくは右の道を行き、国道1号で左折し、倉真川の大池橋を渡ってすぐを左折するようだ(大池交差点:下写真の右側の道が秋葉山へ、左側が国道1号、旧東海道は写真に写っていないが左折した道を進む)。私は突き当たった道で本を取り出し確認し、天浜線(もうこんなところまで来たかという感じ:昨年、姫街道を少し歩いたときに乗った電車である)の西掛川駅で旧東海道に合流した。

清水銀行 十九首塚 大池交差点 秋葉神社道入口



大池一里塚跡原川松並木 大池一里塚跡を過ぎ、しばらく歩くと掛川バイパスのインターと交わるため、少し複雑になる。高架下をくぐり、左折し、斜め右に入る道が旧道である。原川松並木があり、この辺りは間の宿だったらしいが、今は賑わいはない。

 その先、掛川市と袋井市との境である原野谷川を国道1号の同心橋で渡る。この橋は掛川市側で地下道を利用し、国道の左側に出た方が良いようである(街道沿いにある案内板:40kB)。私は、そのまま国道の右側の歩道で袋井市に入った。もう5時半である。


袋井
ゴミステーション 同心橋を渡ると旧道はすぐに左折するようである。同心橋を右側の歩道で渡った私は交差点で左折し、旧道に合流した。若干遠回りである。合流した地点で歩き損ねた旧道を見ると、妙なもの(写真左)があった。どうやら、この駕籠の中がゴミ集積場のようだ。

 東海道を西へ進むと、左右に蛇行した道に土塁を残した松並木が続く(写真下)。富士浅間宮の赤鳥居を過ぎると、左手に妙日寺があり、その隣の小学校の庭に江戸から60里目の久津部一里塚跡がある。午後6時を過ぎ、辺りが薄暗くなり始めると常夜灯の明かりも良いものである(電線が見えなければもっと良いのに・・・)。

久津部一里塚跡
松並木 土塁 富士浅間宮赤鳥居 久津部一里塚跡 常夜燈



東海道どまん中茶屋 県道と合流する新屋交差点付近も複雑である。来た道を道なりに左折しても良いと思うのだが、例の道標が県道側にある。県道に沿い交差点を直進し、左折し、すぐの細い道へ右折する。先ほどの道からだと横断歩道がないのである。細い道はすぐに車が通れる道幅に変わる。その先も少し複雑だが、袋井宿の説明板や東海道どまん中茶屋があるのでわかるだろう。

 時刻は6時半。昨日、今日と、距離の割には時間がかかっている。こんな時間であるが東海道どまん中茶屋は灯りが燈っている。お茶でも頂こうかと中に入ると・・・。一杯飲み屋といった感じである。すでに出来上がったおじさんが4人。普段はどんな感じの店なのだろう? 下戸の私にはちょっと居づらい雰囲気であった。次回のスタート時に寄るか否か思案するところである。


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