第8日目その1 2001年6月2日(土) 晴れ 袋井−見附−天竜川−浜松−舞阪−弁天島


 今回は天気が良さそうである。出発の前日に弁天島にあるホテルに予約を入れた。2日間で袋井から赤坂まで、約70キロである。これは後で調べた距離で、実は内心60キロくらいだと思っていた。出発前、この2日間で記録的な歩数を歩くことになるとは思ってもいなかったのだが・・・。

 今回も新横浜6時51分発の「こだま」に乗ることができた。8時20分掛川着。東海道線への乗り換えで、ホームで待つ間、風があり意外に寒かったが、このくらいの方が歩くには都合が良い。天気は薄曇り。掛川−袋井は以前は1駅の区間であったが、その間に2001年4月22日に「愛野」駅が開業した。8時47分、袋井駅に到着。駅前で万歩計をリセット。


袋井宿
広重画-袋井宿 袋井宿の開設は元和(げんな)2年(1616年)であったが、鎌倉時代の京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだものにも記されているので、ある程度宿としての設備を整えていたと考えられている。東海道五十三次の真ん中にあたる江戸、京都のどちらから数えても27番目の宿場である。
東海道どまん中茶屋
 まずは「東海道どまん中茶屋」に向かう。営業時間とされている9時に到着。前回立ち寄ったときとは違う人に店に入るよう招かれたが、歩き始めたばかりなので今回は休憩せず、東海道を歩き出す。東海道は、この茶屋の左側の道を行く(右写真の左側の道:左折した道ではない)。

 しばらく歩くと左に東本陣跡、右に袋井宿場公園(下写真)がある。ここは町として宿場を意識しているようで、ごみを出す場所にも意気込み感じられる。御幸橋の袂には本町宿場公園があり、高札(下写真)や秋葉灯篭などがある。

東本陣跡 袋井宿場公園 ゴミ集積所 高札場



手術室澤野医院記念館 旧澤野医院記念館(写真左)は、澤野家が江戸期より代々地域医療を担っていた病棟や居宅が平成11年に袋井市指定文化財に指定され、記念館として見学ができるようになった(入場無料)。レントゲン室や診察室、手術室(写真右)などあり、庭も見学できる。2階は袋井に関連した資料が展示されている。

 寺澤家の長屋門を過ぎると、東海道は県道に合流。しばらく進んだ後、歩道橋の手前を右に入る(下写真左端)。時刻は9時54分。旧道に入らず県道をまっすぐ進んでしまうと江戸から61番目の木原復元一里塚や許禰(こね)神社にある家康の腰掛石などを見逃してしまう。古戦場木原畷は、元亀(げんき)3年(1572年)、武田信玄と徳川家康が戦ったところである。

 再び県道に合流して、しばらく行くと左側に須賀神社の大楠への入口と高札場跡の木杭がある。大楠前は幼稚園の遠足らしき集団とかちあい写真を撮るのに苦労した。

旧道は右へ 木原復元一里塚 家康の腰掛石 高札場跡 須賀神社の大楠



 太田川に掛かる三ケ野(みかの)橋を渡るとすぐ左手の道(下写真左端)を入り、すぐ右の階段を下り、松並木へ向かう。前方に見える小山が三ケ野坂である。古戦場としても名高いが、ウォーカーには三ケ野七つ道で知られるところである。七つとはどの道を指すのか全ては分からないが、鎌倉の古道、江戸の小道、明治の道、大正の道などがあり、また、現在の国道1号線(昭和の道)、および1号線の磐田バイパス(平成の道?)がある。

 旧東海道を進むと、まず鎌倉の道への分岐点に出会う。東海道は直進し、二股に分かれるところ(下写真)は左の明治の道を行く。右は大正の道である。途中左に曲がる道が江戸の古道である。江戸の古道に入らず、明治の道を道なりに進んでも出るところは同じである。登り坂ではあるが、たいした距離ではない。数十メートル登ると左手からの鎌倉の道と合流し、右手に折れ、素朴な道を20分ほど進む。

三ヶ野旧道へ 松並木 大正の道と分岐 江戸の古道



見附宿
広重画-見附宿 大化元年(645年)、各国に国府が置かれ、遠江(とおとうみ)国府の地と定められたのが見附であった。明治時代、街中に汽車が通ることを嫌ったため、磐田駅は宿場から離れている。
旧道は右へ
 松並木が少しあった後、国道1号と合流する。遠州鈴ヶ森は国道の右側にある。しばらく進み、斜め右に入る道(写真右)が東海道。時刻は10時54分。

 坂を下ったところに見附の木戸跡。左手の阿多古山(愛宕神社)の石段を登ると見附の街を見渡せ、社の裏手に江戸から62番目の阿多古山一里塚跡がある。

 近くの見付天神(矢奈比売(やなひめ)神社)にも立ち寄った。東海道随一の学問の神として信仰を集める神社とのこと。色々な種類の鶏が放し飼いになっている。鳥居の側に悉平太郎という犬の像がある。むかし、この辺りに妖怪が住んでおり、毎年、人身御供が行われていたが、信濃の犬・悉平太郎が妖怪を退治し、平和な宿場町にもどったという伝説がある。

愛宕神社より 阿多古山一里塚 鳥居と悉平太郎像 見付天神



 高札場があるJA見付支店の建物も宿場の雰囲気を意識した造りだ。旧見付学校は明治8年に建てられ、現存する日本最古の小学校であり、現在は入場無料で見学できる。教室での授業風景が再現されていたり、資料館の部分や上部は展望室になっている。なつかしの学用品の中に自分も使った覚えのあるものがあった。それだけ歳をとったということか・・・。

JA見付支店 旧見付学校 教室 見付学校展望室より



姫街道追分 見付学校から5分ほどの交差点で東海道は左に曲がる。まっすぐ行くと姫街道(写真左)となる。しかし、なぜ、ここで分岐しているのだろう。天竜川を渡るのは、東海道も姫街道も同じ場所ではないのだろうか? この辺りの姫街道は、池田近道とも呼ばれ、池田の渡しに行くには近道なのだが、東海道よりアップダウンがあり、また、当時は道も細く、徒歩の人は通れるが、馬や荷物は通れなかったようである。旧道は左へ

 この辺りが見附宿の出口のようだ。東海道は国道1号を横断した後、バス停近くの左斜めの道(写真右の左側)に入り、郵便局のところで合流するまでの短い距離だが旧道が残る。遠江国分寺跡や府八幡宮がある道を磐田駅に向けて進む。

 江戸期の宿駅制度の前の東海道は、遠江国分寺から西に向かい、一言(ひとこと)坂を通って池田の渡船場に出ていた。しかし、家康はこの古道を東海道としないで、磐田駅の近くまで一旦南に向かうルートを東海道とした。それは、磐田駅の南に浜松城滞在中の鷹狩りの休憩茶屋として建てた中泉御殿を、天下を治めてからも利用したため、東海道の道筋も御殿へと延びたと言われている。まぁ、理由はともあれ、現代人にとって街道筋が駅に近いことはありがたい。

磐田駅近くの曲がり角 ジュビロ−ドを歩いた来たはずだが、歩道にジュビロ磐田の選手の手形などあったのか見た記憶がない(2002年8月に立ち寄ったときに手形や足型があることを確認した)。磐田駅が見えてきたところで東海道は右に曲がる。この曲がり角にある店(写真左)で昼食をとることにした。初めは浜松で「うなぎ」と思っていたが、まだ2時間以上掛かるだろう。時刻は12時25分。袋井駅から3時間半以上経過している。前回歩いたとき、袋井のどまん中茶屋に午後5時くらいに着いていたら東海道に近い磐田駅まで歩こうと思っていたが、とんでもない話である。まぁ、距離的には1時間で歩けると思うが、だてにJR東海ウォーキングきっぷ(2001年の企画)の1コースになっているだけのことはあり、見所が多い。 ちなみにお昼はオムライス(650円)を食べた。


ちょっと寄り道(遠州三山)
袋井マップ 袋井の周辺には、遠州三山と呼ばれる名刹がある。東海道からは数キロ離れているので、ウォークとしては立ち寄らなかったが、後にクルマで訪れたので、簡単に紹介する。(東海道の南に位置する法多山には、まだ行っていない。) なお、左の地図で、可睡斎・油山寺近くの緑色の道は、ヤマハのテストコースである。

可睡斎(かすいさい)
 応永8年(1401年)に開かれた曹洞宗(そうとうしゅう)屈指の名刹で、火防の守護、秋葉信仰の総本山である。花の寺としても知られ、春はボタンと百合、夏のサギソウ、秋の菊、冬は寒牡丹が咲き、ぼたん苑には150種5000株の花が咲く。



油山寺(ゆさんじ)
 天平勝宝元年(749年)、行基上人(ぎょうきしょうにん)により開基された。目の霊山として知られ、日本3大薬師の一つである。山門や三重塔などは重要文化財。昔は油が湧き出ていたといわれる。境内は、ちょっとしたハイキングが楽しめるくらい広々したところである。



法多山(はったさん)
 神亀(じんき)2年(725年)、行基上人により開基された真言宗の名刹。本尊に正観世音菩薩(通称:厄除観音)を安置。私はまだ訪れていないが、杉並木や桜が見事ということである。


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