第2日目その1 2000年8月14日(月) 晴れ 布田五宿−府中−日野−横山(八王子)


布田五ヶ宿
 国領、下布田、上布田、下石原、上石原は五宿あわせて一宿の機能を持ち、布田五ヶ宿と呼ばれていた。各宿に問屋場が置かれたが、人馬の継立は1ヶ月のうち6日ずつ担当した。日本橋からの距離も6里ほどで、多くの旅人は、ここを素通りして府中宿まで足を延ばしていた。このため、布田五ヶ宿は間の宿のような存在で、本陣、脇本陣はなく、旅籠も9件だけであった。

甲州マップ06

小島一里塚跡
 甲州街道ウォーク2日目は国領からである。南武線、京王線を乗り継いで国領駅から歩き始めた。時刻は9時14分。10分もしないうちに布田を通過。調布駅前付近は人通りも多い。現在では調布という地名はかなり名が通っていると思うが、江戸期の宿の名にはなっていない。明治の中期に、五ヶ宿に飛田給と上ヶ給を合わせ、調布町と名づけたのが始まりとされるが、平安時代に調(貢物)にした布が作られた土地でもあるそうだ。

 調布駅を過ぎて少し進んだところに江戸から6里目の小島一里塚跡(左写真)がある。ここに書かれている説明板によると、ここに植えられていた榎の大樹は昭和40年頃、危険防止のため伐されたとある。

 下石原は、中央道の調布インターを利用するときに見かけた記憶のある地名であった。中央道を潜りしばらく進むと飛田給である。飛田給には、2001年に東京スタジアムが完成し、大きなイベントのあるときは京王線の特急も停車するようだ。なお、上の地図には示していないが、飛田給の先から旧甲州街道の南側の道が江戸初期の甲州道中であり、一里塚跡などはそちら側にある。

 調布市の北部にある深大寺は、都内では浅草寺に次ぐ古い寺であるそうだが、私はまだ行ったことがない。深大寺蕎麦は「江戸名所図解」(1831年出版)にも紹介されている名物で、現在でも有名である。


府中宿
 府中は、かつての武蔵の国の中心であった。新宿、番場町、本町の3町が、かつての府中宿。本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋、木賃宿、飯盛旅籠の揃った宿場であった。

甲州マップ07


常久一里塚跡大国魂神社 京王線、多磨霊園駅と東府中駅の間にある常久(つねひさ)一里塚跡(写真左)は、江戸初期の甲州道中、現在の品川道沿いにある江戸から7里目の一里塚である。旧甲州街道からは200mほど南に位置する。

 東府中駅の先で、旧甲州街道は京王線の線路を横断して進む。左手にある八幡(はちまん)神社は、聖武天皇(724〜749年)が一国一社の八幡宮として創立されたと伝えられている。この辺りは八幡宿という村名であったが、農業中心の村落であった。

 八幡神社から西へ1キロほどのところ左手に大国魂(おおくにたま)神社(写真右上)がある。武蔵国内の重要な6社(小野、小河、金鑽(かなさな)、氷川、秩父、杉山)を集めて祀り、武蔵総社または六所宮とした。入口から本殿までは300m近くあり、参道脇には市立図書館もある。右上の写真の反対側は府中駅へ馬場大門けやき並木(大国魂神社の表参道)が続いている。現在の宮町が昔の新宿、宮西町が番場宿である。

高札場前高札場 旧甲州街道と府中街道が交差するところに高札場跡(写真左端)がある。右の写真は高札場の前から甲州街道の西の方を見たものである。その向かい側の問屋場跡には、それを意識して作られたような建物(写真左から2番目)がある。

 高札場から西へ200mほどのところに下河原緑道があり、南に1.5キロほど行くと府中市「郷土の森」がある。時間があれば、寄ってもらいたいところである。(「郷土の森」紹介ページへ

 また、大国魂神社の南に位置する中央高速沿いには、ユーミンの「中央フリーウェイ」の歌詞にでてくる競馬場とビール工場がある。

 旧甲州街道は、本宿の交差点で国道20号に合流する。


国立〜立川〜日野



 本宿の交差点から日野橋の五差路の交差点まで、旧甲州街道は国道20号を進む。この区間は途中、歩道が狭いので自転車に気を使いながら歩くことになる。甲州古街道は、さらに南に離れるようで、江戸から8里目の一里塚が日本電気府中事業所内にあるようだが、私は未確認である。

谷保梅林壺焼きいも 谷保(やほ)天満宮は、甲州街道沿いにあるが、階段を下ったところに本殿、拝殿等がある珍しい神社である。これは、現在の甲州街道は高台に位置するが、甲州古街道が境内の南側を通っていたためである。

 左の写真は春に訪れたときのもので、境内には梅林もあり、春には梅を観賞できる。よく晴れて澄んだ日には富士山も見ることができ、参道では国立名物と称した壺焼きいもが売られていた。

 日野橋の五差路で旧甲州街道は、奥多摩街道へと進む。私が実際に甲州街道ウォークを行ったときは調査不足で、渡船場跡(下写真左から2番目)が日野橋より多摩モノレールも走る立日橋(下写真左端)の近くだということは知っていたので直進した。五差路を過ぎたところのマクドナルドで昼食とした。時刻は正午を少し過ぎたくらいである。
 
 実際の旧道は、奥多摩街道を少し進み、やや右に曲がるところを左折する。左折した方の道に現代の道標もある。新奥多摩街道を横断し、更に進むと日野の渡し碑などがあり、河原に出る。日野市側にある渡船場跡の木杭は夏場は人の背丈以上に伸びたカヤトが茂り見つけるのが困難である。下の写真は春先に撮ったものであり、立日橋から見た位置関係も合わせて示した。立日橋を渡ると多摩モノレールは左にカーブして行く。国道20号の近くの駅名は「甲州街道」(下写真右)である。

立日橋日野渡船場跡立日橋より甲州街道駅

 甲州古街道の万願寺一里塚跡は中央道付近にあるらしいが、私は未確認である。20年以上前の「今昔三道中独案内」には、万願寺石田の岩崎氏庭に当時の一里塚が残っているとある。最近の本には、右手(北側)の小高くなった草むらが日本橋から10里目の万願寺一里塚跡と記されている。


1日目その2
初台〜国領へ
甲州街道トップへ
2日目その2
日野宿〜横山宿へ